1クリックすると展開/収納を切り替えます。
部屋の中に注いでいる暖かさのある明かり……。それは、朝特有の強い光ではあるが柔らかくも暖かな日差しであり、部屋の奥まで届いた事による明るさである。その中で唯一聞こえてくるのは静かな寝息である。
楓と薫の家として提供された建物……。何処ともしれない場所にやってきた楓と薫であるが、昨日はいろいろな事があったせいなのであろう、何とか眠りにはつけたようである。しかし、殺風景な部屋で寝息を立てているが、ベッドはなく敷き布団すら敷かれていない状態である。雑魚寝をするにしては少々問題があるとは言え熟睡している様子である。
「ん」
短い唸り声が聞こえる……。それでもまだ起きる気配はなく、二人共ぐっすり眠っているようである。
その後も、しばらくは静かな寝息を立てていた二人の内の一人が、モゾリと動いた。
「……ん。ん~。朝になったようね」
隣を見下ろすが相方の姿はなく、辺りを見回すと隅の方で丸くなっているのを見つける。
──……あんな所まで寝返りかしら?
「くすっ」
微笑んだ人物が見ている先、窓の向かいの壁際に相方がいた。しかし、寝返ったにしては結構な移動距離である。
スッと立ち上がり相方の元へと向かい座り込んだ。
「楓。起きなさい」
「……ん~。……あと五分」
「何を言っているの、朝よ。起きなさい」
声を掛けたのは薫のようである。声を掛けながら楓を再三に亘って揺する事で、ようやくむくりと起き上がってきた。
「おはよう。楓」
「ん。……お母さん、おはよう……」
「もう、しゃんとしなさい」
「……うん。大丈夫、お母……。ん? おっと、薫……ごめん」
「いいわよ」
「……ん~。よく寝た」
「そのようね。さ、身支度しましょう」
「え~。もう」
ぶつぶつと文句を言いながら「よっこいしょ」と呟いて楓が立ち上がった。それを見ていた薫は再びクスリと笑う。
「あによぉ。笑うなんて酷いじゃない」
「ふふふ。ごめんなさい、いつもの楓で嬉しいわ」
「あにそれぇ」
微笑む薫と若干頬を膨らませた楓は、スッと開いたドアを潜って最初に気が付いた部屋へと足を踏み入れ、もう一つの続き部屋へと向かった。のだが……。
「む~」
「どうしたのかしら?」
「ん? どう見ても洗面台じゃぁないよね、これ」
「そうね。流しと言った方がいいかしら?」
「だよねぇ。……ま、使えるんだからいいんだけど」
バシャバシャと洗顔を済ませる楓だが、忘れていたことが一つあった。
「ん~。あぁ、忘れてた、タオルないん……。あっ、出てきた」
「またなのね……。少し気味が悪いわね」
「……そうかなぁ。便利でいいきがする」
暢気な楓の言葉に、溜息を漏らす薫がいた。
確かに、気が利くと言ってしまえば良いのかもしれないが、何でも出てくるとなると気持ちが悪いと言えない訳ではない。その辺りは感情や思想に由来するのかもしれない。
「あぁ、でもでも。お風呂ないし、洗濯できないし、着替えも持ってきてないしぃ、ずっとこの服ってのはやだなぁ」
「そうねぇ、着た切り雀というのも困るわねぇ」
「そうそう。着た切り雀?」
「……同じ服を着続ける事よ。慣用句でしょ」
「そだっけ?」
言葉を今ひとつ身につけていない楓に、額に手を当て溜息をついてしまう薫がいた。
「あははは。えっとぉ、薫お待たせ使っていいよ」
「もう少し言葉を覚えた方がいいわね」
「うっ。えぇとぉ……。その内~」
洗面台を譲った楓は、視線を外すだけではなくその場から慌てて逃げ出した。とは言っても狭い家の中である、続き部屋である最初に現れた部屋へと非難するだけではある。
「あれ? う~む」
洗面を使い終えた薫が、唸っている楓の元へとやってきた。
「何を唸っているのかしら」
「ん? この家の間取りって……」
「まさかとは思うのだけれど、位置関係が分からない、とは言わないわよね」
薫の表情から危機を察知したのであろう、楓は首が痛くなるのではと言う程に横に振り続けている。
「……はぁ。もういいわよ。それで、どうしたのかしら?」
「出入り口と玄関があって、その先にこの部屋があって、右に洗面台で左後ろが昨日寝た部屋、でいいんだよね。それ以外に部屋はなかったよねぇ」
「その通りよ。間違いはないわよ。それで?」
念を押すような楓に、後ろにいた薫は“何を今更”と言った表情をしている。
「……記憶違いじゃないんだ、良かった」
「ここを見て」
そう言った楓は遮っていた薫の視界からのいた。
「あら……」
そう呟いた薫の目に入ってきたのは、壁ではなく明らかにドアであった。しかも並んで二つ分あったのである。
「寝ている間に出来た、と言う事かしら」
「……そうなるのかなぁ。でもドアって事は……」
「楓の考えている通りなんでしょうね、きっと……」
「薫も認識した事だし。じゃぁ、早速」
「待ちな……」
薫の言葉を最後まで聞かずに、片方のドアを開けてしまう楓であった。
相変わらず思考より行動が優先してしまう楓に、額に手を当て本日何度目になるのであろう、溜息をついて項垂れる薫がそこにいた。
「……楓。物騒な何かが出てきたどうするの」
「えぇ。家だよ? そんなのある訳ないじゃん」
「貴方という人は……」
「おぉ。見てみて、寝室だよ。あぁでもでも、もう一日早く出来てくれれば、床でごろ寝なんてする事なかったのにぃ」
そう言った楓は、頬を膨らませて憤慨していた。それを隣で見ている薫は、なんとも言いがたい表情をして「隣も同じなのでしょうね」と呟いた。
「おっと、そうだね。一応見ておかなきゃ」
薫の呟きに素早く反応した楓は、はしゃいだまま隣の部屋へと向かったのだった。壁越しに聞こえてくる楓の浮かれてはしゃぐ声に、面を上げた薫の表情がきりりと締まっていた。
「楓!」
楓がいる部屋に移動するや否や、強い口調で楓の名を呼ぶ薫である。どうやら小言が始まるようである。
「あに?」
「はしゃぐのもいいのだけれど、分からない事だらけなのよ。もう少し考えて行動しないと駄目でしょうに」
「えぇ~。それは薫に任せ……てばかりじゃ駄目だよね、やっぱり……。とは言ってもさぁ、あのおでこぶつけた出っ張りだってなんだか分かんないしぃ」
「……その通りよ。あの突起ですら使用目的が皆目見当が付かないんですからね、これ以上増えでもしたら困るのよ」
「そうだけどさ……」
「楓は順応しすぎよ……」
釘を刺された楓は意気消沈する。理解する事で対応を取ろうとする薫にとって、楓の早い順応力がうらやましいのかもしれない。
「……ちょっと言い過ぎたわね、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。薫は焦らないで仕組みって言う奴を解明して貰えればいいよ」
落ち込み掛けた楓に、薫が謝る事で元気を取り戻したようである。そしていつしか、いつもの表情が戻ってくる二人であった。
「さ、朝食を食べに行くわよ」
「うん」
「ごはん、ごはん」
「それは止めなさい」
「えぇ~」
元気よく呪文のように唱えながら道を歩く楓に、注意する薫がやや後ろにいるところ、そしてこのやり取りは正に母と娘である。
注意をしている薫なのであろうが、幾分か喜んでいるようにも見える表情に、薫にとってのこのやり取りは大切なものである事が伺える。
「うわっ。結構人がいるね。昨日の夜より多い?」
「そうね。別の区画に住んでいるのでしょうね」
「そうか。そうだねぇ、家の方には他に建物なかったんだよね」
既にかなりこの状況になじんでいる楓は、居住場所を“家”つまりは“自宅”と認識しているようである。それと、この辺りの食事処となっているのである、他の近くにある区画からここまで来ているのであろう事も想像に難い。
「さて、朝食は何かなぁ」
そう呟いた楓は、入って右手にある箱形をした配膳機の下に両の掌を上にして差し入れる。すると、トレーが落ちてきて「おっと」と受け損ねたのか楓が呟いた。その後、主食や副食などがトレーに載った。
「おっ。朝食はお魚だぁ」
「……」
「薫?」
「何かしら?」
「何か苦手なものってあったっけ?」
「ないわよ」
そう呟いた薫の表情は、何かを訝しんでいるように見えるが、何事もなかったかのように空いているテーブル席へと向かっていった。
「いっただっきま~す。はむ」
席に着くなり、早々に食べ始める楓の食べっぷりはいつもと変わるところはない。
「かほり。……ん。調子悪い?」
「……いいえ。大丈夫よ」
「ほう? でも、手付けてないよ? 昨日の夕飯もちょっとしか食べてないし、大丈夫?」
「……得体の知れないものなのよ。良く平気で食べられるわね」
「ん~。これしか食べ物ないし。食べないと元気出ないもん、しょうがないよ。あっ、でもそれだけじゃないよ。素材の味も地球と同じだし、おいしいよ」
何処ともしれない場所で、どう作られたのか分からない食事を目の当たりにして、どう対応をするのかと言うことにおいては、割合と性格が出やすいといっては言いすぎかもしれない。しかし、理屈を優先する薫にとっては、未だ慣れない場所と言う事なのであろう。
食事に対して訝しみながらも、楓の言い分も間違っていないと理解出来る薫は、本物と寸分違わない食事に……。
「はむ」
「うんうん」
薫が食事を取り始めた事に嬉しくなったのであろう楓が、頷きつつも朝食を平らげていった。
「……楓」
「あに?」
「貴方の言うように食事は大切よ」
「うん」
「……この状況がいつまで続くか分からないものであるなら、ここの食事も取らざる終えないわね」
「うん……まぁ……ね。でもちょっと大げさすぎない?」
「……そうね」
*
「いやぁ~。それはいやぁ~」
「駄目よ楓。中に入れないでしょ」
「だって……。その窪みって変な感触がある。だからいやぁ~」
作業場の入り口の前で、小さな子がだだをこねているような仕草をして、ロック解除のために窪みに手を押しつける事を拒む楓と、優しく宥め賺してロック解除を迫る薫がいた。
周囲にも建物はあるのだが、今のところ人気がないことは幸いと言って良いのかもしれない。つまり、二十歳にもなろうかという女性とは思えない程の抵抗ぶりを、周囲に知らしめることがないと言うことだからである。
「楓。いいのかしら? 何れはこの辺りにも人が来るわよ。この恥ずかしい姿を見せたいのかしら?」
「……う~。それもやだ」
「……はぁ。いい加減観念してロック解除に協力して欲しいわね」
溜息を漏らしつつ楓の強情に付き合う薫だが、最後の“欲しいわね”の所で鋭い視線を放つと……。
「ひぃ~」
怯えた小動物よろしく楓の抵抗が止まる。そこを見逃さずに薫が強引に楓の右の掌を押し当てる。
「うひゃぁっ!」
くすぐったかったのであろうか、奇声を発した楓を余所に作業場のドアが開いた。
「……ふぅ。これで作業場の全てが使えるようになったわね。さ、行くわよ」
「ううぅ~。暗いよぉ」
そう呟いた楓は、何故か薫の後ろに張り付くように寄り添っていたが……。
「ぶ~。あんで止まるのぉ。早く先に行こうよぉ。……あ、あによぉ。ロック解除したんだしもういいじゃん」
「明かりを付けて頂戴」
立ち止まって楓に振り返った薫が、楓に小声でやるべき事を告げると“えぇ”と言う表情をしたものの、薫の表情に威圧を感じて……。
「……明るくして」
ぼそりとやや小さい、怯えたような声で呟いた。
楓の呟きに答えるようにロビーに明かりが灯る。
「これでもう怖くはないでしょ」
「う、うん」
薫の後ろにいた楓から震えや怯えと言った類の感情がやや失せ、表情が明るくなっていった。
「……よ、ようし! た、探検だぁ!」
若干恐怖が残っているのが分かる程に声が震えている楓だが、元気を出そうとしているのも伺える。それを見ていた薫の表情も穏やかになっていく。
意を決してロビー右奥にあるドアの前に近付いたのだが、うんともすんとも言わず首をかしげる楓であった。
「ほ? 何故に開かない?」
ジャンプしたり両手を頭の上で振ったりしているのだが、一向に開く気配がなかった。とドアの周囲を見回した楓は……。
「げっ。ここもぉ」
「どうしたかしら?」
「うっ。いや……。えっと……。窪みがね、ここにもある」
「そう」
「ひっ!」
竦み上がった楓が首を巡らせると、ニコニコしているが“早くしなさい”と言っているように感じる薫が視界に入った。
パフォーマンスでもしているかのようにギクシャクとした動きで、右手を窪みに押し当てる。
「うひゃぁっ!」
「ドアが開いたわよ」
なんとも言えない感触に硬直していた楓は、促されて開いたドアを潜るのだが、その動きはまだギクシャクしていた。
「こちらは明かりが付いているのね」
呟きながら楓の脇をすり抜け、地球で慣れ親しんだ実験台と思しきテーブルを見て回り始めた。
「実験台が二つあると言う事は、少なくとも二種類の作業を想定しているのかしらね」
「……お、おぉ~。じ、実験室だぁ」
恐怖と緊張から完全に抜け出した楓が、目を輝かせて楽しい事が始まる、と言いたげに叫んでいた。それを聞いた薫は安堵の笑みを漏らしていた。
「で、やっぱりここにもあるんだ。出っ張り……」
「そうね。一番目に付くところにあるものね」
「う~。またそうやって楓ちゃんをいじめるぅ」
「あらごめんなさい。そんなつもりはないのよ。つい口走ってしまったわね」
「む~」
唸りながら部屋を見回している楓は、入って左手中程に間口を見つけそこへと向かった。
「よしよし。ここはドアないんだ。……ふーん。こっちは狭い部屋、でいいのかな? でも、ちょっと狭いなぁ。がらんどうだ」
間口から入った楓はぐるりと見回すも、設備や機器は何もなかった。
「おぉ、こっちにもドアがある。あっ」
ドアを見つけた楓が近付いたがやはり開かず、見回したところ例の窪みを発見し、唸って思案しているようであるが…。
「うひゃぁっ!」
思わず悲鳴を上げそうになり左手で口を押さえたが、声の方が早かったようで、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
「何があったの!」
「あっ、ごめん。ドアロックがあって……。思わず出ちゃった、えへへ」
「そう。それなら良かったわ」
そう言った薫から心底安堵したことが伝わってくる、それ程にびっくりしたようである。
「早く慣れなさい」
「……あい。面目ない……」
開いたドアを潜るとそこも部屋のようであるが、幾分か、いやかなり見慣れた構造をしていた。
「う~ん。トイレ、でいいのかなぁ。あっ、開けてみればいいのか。失礼しま~す」
入った部屋の右手奥側から三つの扉が並んでいた。その中の一つを恐る恐る開けた楓は……。
──やっぱトイレだった。さぁて、戻るかな。
「あっ……」
お手洗いに入ったドアの右にはドアロック解除の窪みがあり、がっくりと肩を落とす楓であった。更にお手洗いの中を見回してもう一つドアを見つける。
「よし! おぉ、こっちは簡単に開い……た」
そう呟いた楓は“しまった”という表情をしている。何故なら、楓が出た先はロビーでだったからである。つまり、実験台のあった部屋に戻るにはいずれにしろドアロックを解除しなければならないと言うことになるからである。楓流に言うなら“気持ち悪い感触”を味わわねばならないと言う事である。何れから入るにしろドアロック解除が必要な事に変わりがない訳で、諦めた楓はとぼとぼとロビーの奥へと向かっていった。
なんとも言えない表情で実験台のある部屋に入ってきた楓は、薫が何かをやっている事に気が付いた。
「薫。何してんの?」
「あら、早かったわね。この実験室で何をするべきなのか、何が出来るのかを把握するため、何があるのかを確認しているのよ」
「へっ? えっとぉ。……やるべき事は“色”を作る事だけど、ここにある器具や機材を使ってどう実現するか考えてるって事?」
「概ねそうよ。手がかりが何もないのだから」
「ふむ。確かにそうだね。ってここは実験室でいいの?」
楓が建物内の探検にいそしんでいた頃、薫は何が揃っているのか、そこから逆算しようと物色していた訳である。本来は楓が行うべき事柄である筈なのだが……。
「どう見ても実験台が二つあるのだからそう言った方が分かりやすいと思うわよ。……それはそうと。探検はどうだったのかしら」
「えっとね。ロビーは実験室とトイレに繋がってて、実験室はロビーと小さい部屋に繋がってて、小さい部屋は実験室とトイレに繋がってる。あっ、それからトイレに入る時と、ロビーとトイレからこっちに入る時はドアロック解除が必要だよ」
なんとも纏まっているようでまとまりのない楓の報告であった。その報告に溜息をついた薫が、物色している手を止めた。
「……整理するとこう言うことね。ロビーとトイレが道路側にあって、実験室と小さい部屋がその奥に繋がっている訳ね。それと小さい部屋と実験室に入るにはドアロックの解除が必要。後は小さい部屋からトイレに入る時もドアロック解除が必要と言うことね。以上かしら」
「おぉ。流石、薫」
「楓もこれくらいは整理して頂戴」
「……努力します」
若干小言になってしまい楓がしょげかえっている。それを見た薫が付け加えて……。
「楓。ロビー以外で保管場所のような物はあったかしら?」
「えっとぉ。なかった、と思う」
「そう。……と言う事は、この実験室に“色”を作る全てが揃っている筈、と言う結論になる訳ね」
楓の探検から大ざっぱな結論を出した薫である。
「そうなるのかなぁ」
「それと、私がやっている確認作業は、楓の方が器具の使用目的も分かっているから早いとは思うのだけれどね」
「……あはは。そうだよねぇ、ごめん。今からでも手伝おうか?」
「そうね。そうして貰うのもいいのだけれど、大ざっぱには終わっているから大丈夫よ」
「ごめん……。で、どんな物がありそう?」
「そうね。理科の実験でも使いそうな器具が一通り揃っていそうよ」
「理科……ねぇ。他には? 実験装置とか」
「機械的な装置の類は見当たらなかったわね」
「……って事はぁ。本格的な実験というか精製はしなくて済むって事なのかなぁ? う~ん」
大ざっぱに何があるのか確認した楓の口から、大がかりな事をせずに色を作る事が可能なのではないかと一応の結論が出たとは言え、まだ始まったばかりである。
「そう言えば、薫、疲れたんじゃない?」
「大丈夫よ」
「でも、座れるといいよねって、椅子ないんだっけ?」
そう言いながら部屋の中を見回す楓の目に留まった物があった。
「何だぁ。あるじゃん」
部屋に入った右手隅の棚や実験台に隠れた場所に椅子が積まれていた。積まれた上から楓が二脚取り出して持ってくる。
「……そこには何もなかった筈よ」
「えぇ~。うっそだぁ。確認しながらだったから見落としただけだって。……でも、何故三脚?」
唖然とし立ち尽くす薫に、楓が一脚手渡すが、納得がいっていないのが端から見ても分かる程であった。
「と、ともかく。今のところ分かっている実験器具で何処まで出来るのかしらね」
「そうだねぇ」
2クリックすると展開/収納を切り替えます。
「う~」
「……楓。彷徨かずに座って貰えるとありがたいのだけれど?」
唸りながら実験台の前、薫の目の前を行ったり来たりを繰り返している楓に対して注意にも似た言葉を投げかけている。
楓は楓で、現状で把握している実験器具で何が出来るのか、楓なりに考えているのであろう。一方で椅子に座り実験台に肘をついて、何やら思案しているようにも見える薫ではあるが、視界を楓が横切る度にぴくりと眉が動いている事から苛立ちを覚えているのが伺える。
「……楓。動き回るのを止めてくれないかしら。どうにも落ち着かないわね」
「え~、だってぇ」
「いいからそこに座って考えなさい」
「ぶぅ~」
少々苛立っている様子の薫の小言に渋々と椅子に座る楓だが、今度は楓の眉がぴくぴくと動いている。どうやら落ち着かないようである。
「……駄目だぁ~」
そう言った楓は立ち上がって再び実験室内を彷徨き始める。
楓にとっては動いている方が良いのであろう。方や薫は静かにして考えをまとめたいのであろう。正反対であるが故の事態と言って差し支えないであろう。
「……」
楓が彷徨く事で落ち着かない薫は、苛立ちを募らせているようで、右手を握りしめて耐えているようである。
「ん~」
唸り続ける楓ではあるが、その中で時折ぶつぶつと何かを呟いている。それに併せて頭が上を向いたり下を向いたり、果ては表情まで変わっている。
「……楓。……いい加減に、しなさい!」
苛立ちが頂点に達したのであろう薫が、遂に怒鳴り声を上げた。
「……」
その怒鳴り声にびっくりした楓はぴたりと動きを止めていた。薫の苛立ちがこれほどとはつゆぞしらなかったようで、いつも通りに振る舞っていたのであろう。いつにない薫の怒りを目の当たりにして、いつしか楓の目に涙が溢れていた。
苛立ちを湛えたまま顔を上げた薫の目に飛び込んできたのは、怯えて涙を流す楓の姿であった。我に返った薫は、これまでにない程の苛立ちを楓にぶつけた事に気が付いたようで、“ガタッ”っと椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
楓に走り寄った薫は、怯えて泣いている楓を抱きしめた。
「……ごめんなさい。ごめんなさいね」
「うぅぅ」
「……楓。怒鳴ったりして、ごめんなさい」
謝り続ける薫と泣き続ける楓は、しばらくの間抱き合ったままであった。
嗚咽が落ち着いた楓は、薫に付き添われながらも椅子に腰を下ろしたが、テーブルに突っ伏すことになった。
「ん~。おぉ! そう言えば、どう作るかっていっても原料見ないと駄目なんじゃ……」
突然、上体を起こしながら、半ば叫ぶように考えに至ったと言わんばかりの発言が飛び出した。
「……それはどう言うことかしら?」
「ん? おっと、えっとねぇ。色を作る元ってまだ見てない訳だから、それ見ないとどう作るか分からないかなと」
目を見開いた薫がそこにいた。
「何てことなの……。初歩的な事を見落とすなんて……」
「あぁ。それはしょうがないんじゃ……」
「楓の言う通りね。二人共、地球にいる感覚で物事を考えていたようね」
「……あっ。そう言う事になるのかな? まぁ、ここに来ていろいろあったしね」
「そうね。余計な事に気を取られていたのかしらね」
あっけらかんと笑顔でいる楓に対して、酷く落ち込んだ薫がいた。
何故ここに来たのか、ここが何処であるのか。何故思うだけで明かりがつくのか、物が出てくるのか。回答を得ようとしても得ることの出来ないもどかしさが、薫にとっては不本意なのであろう事が表情に滲み出ている。
「……薫?」
「な、何かしら?」
「何か問題、ある?」
「何故そんなことを聞くのかしら?」
「う~ん。なんとなくだけど、表情がいつもと違う気がするから」
「そ、そんなことは……。そうね、納得がいかない、いえ、不本意なことだらけですからね、ここは。……それでも、貴方を見ていると些末なことのようにも思えてくるわね」
「はっ?」
「……いいのよ。気にしないで頂戴。……さて、今後はどう進めましょうか?」
「あぁ、何かはぐらかされた気がするぅ。……まぁ、いっか」
自身の思いを少し吐露したことで気持ちに折り合いがついたようで、薫の表情がいつものそれに戻りつつあるようである。釣られたのか、楓にも笑顔が戻ったようである。
「進めるねぇ……」
「分担として考えるなら、器具の整理は中途半端になってしまうし、これは私が引き続きやるわね」
「じゃぁわたしは……。薫とかち合わないように原料探す」
「そうね。それじゃやり直しをしましょう。とは言ったものの、記憶するには限界があるわね」
「そうだねぇ。紙の類は置いてなかったような気がするぅ」
「筆記具の類の持ち合わせもないわ、困ったわね」
二人が途方に暮れていると、“ガタッ”っと家具の類を置いたときに発するような音が聞こえてきた。
「? い、今、音がしたよねぇ」
「そうね。間違いないわ」
「まさか、ねぇ」
「いえ、ここではそのまさかが起こり続けているのよ。否定など出来ないわよ」
「音はあっち?」
「……多分」
何故か小声になって話している二人が向けた視線の先は、実験室の隣の小部屋であった。
「……行くの?」
「何が起きたのか確認しないといけないでしょ。さ、行くわよ」
先程の元気は何処へやら。怯える楓を余所に、スッと立ち上がって小部屋へと向かう薫と、その後ろから屁っ放り腰の楓が続いた。
間口の前で無言のまま、薫が楓に左側に寄るようにジェスチャーをすると、首を横に振る楓だが、“やるのよ”と言わんばかりの視線に頷いてギクシャクしながら位置につく楓であった。
薫は間口の右から左側を、楓は左から右側をざっと確認し、怪しい人物がいないことを確認すると、意を決して足を踏み入れる。裏手側の隅に引き出しだけのキャビネットが設置されており、天板の上には鉛筆立てと筆記具が立っていた。
「うっひょ~。すっご~い」
最初に動いたのは楓である。まるで子供が新しいおもちゃを見つけたときのように、ガタガタと引き出しては中を確認していた。
「これは見慣れた大きさ、って事はA4だねぇ。こっちはB4かなぁ」
「ちょっと楓」
「ん? あに?」
「その顔は……。子供に戻ってるわよ」
「えぇ~。だって、欲しいなって言ったら出てきたんだよ。もう、ワクワクするよねぇ」
目を輝かせた楓は、見尽くしたにも関わらずその場を離れようとしないのである。挙げ句は「書けるかなぁ」と言いながら紙を一枚取り出して、筆記具で試し書きを始めてしまう始末である。
「……そう言えば、楓」
「あに?」
「紙が欲しいって言ったわね」
「うん。言った」
「ノートが欲しいと言ったらそれが出てきたのかしら?」
「おぉ、なるほど」
「……まぁ、いいわ。今回はバラの方が都合がいいものね」
「? ……おぉ、戸棚に張るってこと?」
「その方が分かりやすいでしょ」
「そうだね」
素朴な疑問を口にした薫であるが、結果としては問題がないようである。楓に関しては、何かが出たことに興味を引かれている様子である。
「所で楓?」
「あに?」
「いつまでもここにいてもしょうがないでしょ。それに、原料探しを忘れていないかしら?」
「おぉっと。忘れてた」
いつまでもキャビネットを見て離れそうにない楓に、薫が分担を思い出させたようである。薫の言葉に名残惜しそうにながらも小部屋を後にする楓であった。
「とりあえずは、五枚程でいいかしらね」
そう呟いた薫は、A4が入った引き出しから五枚程取り出し、鉛筆立てから適当な筆記具を取り小部屋を後にした。
──手触りは、紙そのものね。
手にした紙の触り心地を確認しながら実験台の椅子に座り、手にした筆記具で紙に試し書きをした薫は……。
──書き味も変わるところはないようね。……考えても仕方のないこととは分かっていても、どう言う仕組みか知りたいところね。
「あぁ、地道だ……」
「まだ根を上げるのは早いわよ」
ルーチン的な作業であるのはしれたこととは言え、既に気が重くなったのであろう楓が呟くとすかさず小言が返ってきた。
「そ、そうだよねぇ。……頑張る」
しばらく無言でお互いの作業を黙々とこなしていった。
「だぁ~。何処にもそれらしい物ないよぉ」
「全てを見たのかしら?」
「ひっど~い。棚は全部見たよぉ。実験室の隅々まで……。あっ、実験台の下があった」
スッと立ち上がりながら「頑張りなさい」と呟いた薫は、紙を持って離れている棚へと向かった。
更にしばらく経つと、それ程大仕事ではないにも関わらず、椅子に座ってぐったりしている楓がいた。
「もう、いやぁ」
「……確認するところはないのかしら?」
「えぇ~。棚の中、二回は確認した。でもそれらしい物はなかったぁ」
「そう……。流石にそれは変ね」
突然。ビーボ-ビーボ-、とサイレンのようにけたたましくも何処か間の抜けた音が実験室に鳴り響いた。
「あによぉ」
「何の音かしら」
飛び起きる楓と実験台で器具の整理をしていた薫が顔を上げた。二人の目に飛び込んできたのは、天井の中央から下がっていた突起の明滅であった。
「うるさいぃ!」
「黄色?」
音の音量に文句を付ける楓と、突起の明滅が黄色であることに訝しむ薫が立ち尽くしていた。
「……そうだわ。小部屋に何か? 楓も周りを確認しなさい!」
「おっと。そうだね。え~と……」
音と明滅に気を取られた薫が我に返って小部屋へ向かう中、楓にも指示を出すとざっと辺りを見回し、更に実験室内を移動しながら見て回った。
「小部屋は問題ないわよ!」
「実験室も見た限り問題なさそう! これって、何?」
「分からないわね。何を伝えようとしているのか……」
問題が見つからない二人は、音が割合小さくなる小部屋に非難しつつ、それでもお互いの耳元で話さないと聞き取りにくい状態に陥っていた。
「む~。どうしようか」
「……この作業場で、知らせなければならないこと……」
「お知らせ……ねぇ。あっ!」
「……来客かしらね」
「そうかも」
「行きましょう」
二人は耳を塞いで小部屋から出て実験室からロビーへと出た。
「どうしました?」
ロビーに出てきた二人が耳を塞いでいたことを疑問に思ったようである。
「シクワン! あのねぇ。凄い……。あれ?」
「音が止んだようね」
「そだね」
「ん?」
楓がシクワンに状況を説明しようとするが、音が止んだ事に逆にびっくりして最後まで言えなかったようである。二人のやり取りを聞いたシクワンが、小首をかしげて“何?”と言いたげな表情をしている。
「……顛末はひとまず置いておくとして、話があるようだから実験室に戻るわよ、楓」
「あ、うん」
「はぁ」
シクワンの表情からと言うより、訪れたことから何かあるのだろうと踏んだ薫の提案で、実験室に戻ることとなった。
実験室に戻ると……。
「おぉ。音が止んでるね」
「そうね。突起の明滅も止まっているようね」
音が鳴り止み、明滅の消えた突起を睨んでいるように見える薫と、“何だったんだろうね”といった表情をしている楓。二人を唯々見詰めるシクワンがいた。
「おっと。立ったままもなんだろうし。椅子椅子」
ぽんと手を叩いた楓が、呟きながら実験室の隅に置いてあるもう一脚を持って二人が使っている実験台傍に椅子を置いた。
「よっこいしょ。シクワン。どうぞ」
「あ、これはどうもありがとうございます」
置いた椅子に座るよう勧める楓に、シクワンは笑みを浮かべて返した。
「今日はどのような用件で?」
シクワンが座るや、唐突に質問を始める薫の表所は堅い。
「二日目ですので、どうなっているか聞きに来ました」
「う~ん。どうって言われてもねぇ、よく分かんないよ」
「……」
「そうね。建物の間取りと備品があることは分かったわね」
「それだけですか?」
「……まだ始めたばかりですから、そう一足飛びに進む筈もないでしょう?」
「うっ、え~」
不本意なことが未だに続いていることもあってか、薫の言葉からはどうしても棘があるように聞こえてしまう口調に、シクワンが怯え始めてしまうのであった。
「えぇっと、薫。何か怒ってない?」
「そうかしら。いつも通りの筈なのだけれど」
「そう。そうならいいんだけど……」
困惑するシクワンを見た楓がフォローしようとしたのであろうが、薫にあっさりと否定されてしまったのである。とは言え、楓が気にするくらいであるのだ、何らかしらの含みはありそうである。
ビボボンビビボーン、と突然に今度はメロディのようでそうでない音が鳴り出した。
「うわぁ~! また来た。あにこれ~」
「今度は何かしら! 突起の色も違うわね」
「ええっ? あっホントだ。きれいな色だね」
「ひぃ~」
咄嗟に耳を塞いだ三人であるが、各々の性格が言葉に出ているようである。薫が指さした突起にはあらゆる色が瞬いており点滅ではなかった。
「音を半分にして下さい」
「シクワン。何?」
「いえ! 音をですね……!」
「うひゃぁ~」
「これは失礼。しかし、この音量は溜まりませんね」
シクワンが呟いたとたんに大音量が半分程へと下がっていった。その中でシクワンの喋っていた最後が大声となったため、今度は楓がびっくりしたようである。
「ふむ。これは溜まりませんね。何故小さくして欲しいと望まなかったのですか?」
「はて? なんでかなぁ」
「そうねぇ。目的を知らされていなかったから何事かの問題ではと考えたせいかもしれないわね」
「うっ。またですか」
「そうでしょう。目的が分かっていれば少なくとも慌てずに済みましたものね」
「……確かに、質問されませんでしたので、うかつでした」
「はぁ。それはおかしいわね、質問しても回答して頂けなかったのに」
「……薫。止めようよぉ」
「……そうね。楓の言う通りね。失礼したわ」
毅然としているようで、未だどうしても強い口調になってしまう薫である。
何とか止めた楓は……。
「……でさぁ、これって何?」
話題を変えようとしたのであろうが、はしょりすぎた質問をしたためシクワンが首をかしげてしまっていた。
「……はぁ。それでは伝わらないわよ。……楓が言いたかったのは、この音あるいは音楽が何を表しているか……。そうねぇ……。何を知らせようとしているのかという事よ」
「何を、ですか」
「……あははは。そうそう」
少々物言いが過ぎた薫は、ばつが悪そうに楓に変わって質問をし直したところ、何かがおかしかったのであろうか、クスリを笑ったシクワンが……。
「お昼です」
「ほっ?」
「ですから、今の音色はお昼になったことを知らせてくれています」
「お、お昼?」
「そ、そうですよ」
「よぉし! お昼行こ。直ぐ行こう!」
楓の一言で、三人揃って作業場を後にした。
「ねぇ、シクワンはお昼どうする?」
「そうですねぇ、よろしければご一緒します」
「薫は、問題ないよね」
「……そうね。ついでに質問してもいいかしら?」
「ど、どうぞ」
表に出た三人は揃ってお昼を食べに食堂へと向かうことにし、その道すがら質問をすることとなったのだが、シクワンは若干引きつっているように見えた。
「あの突起の役割ついてお伺いしてもよろしいですか?」
「あ、はい。あれはですね、来客や食事の時間などを知らせる端末と行ったところです」
「次の質問になりますが、黄色に点滅していたのはどう言う意味になるのででしょうか?」
「黄色ですか。いつのことです?」
「貴方が来たときです」
「えっ? おかしいですね。始めて来た方の場合が黄色なんですよ。ですが、昨日入ってますから、どう言うことでしょうか。戻ってから調べてみます」
「って事は、二回目以降は別の色?」
「そうです。音は同じですが、緑の点灯になります」
「なるほどぉ……。でもさ、それなら最初に教えてくれてもいいじゃん」
突起の色にもいろいろ意味があるようであることが分かってきた。しかし楓は、最初に教えてくれなかったことに少々むくれてしまったようである。
「それで、他には伝えておくことはないんでしょうね」
少々きつい口調で釘を刺す薫に、びくりと体が反応したシクワンは、咄嗟に楓の陰に隠れてしまった。
「は、はい。い、いえ。そこは、なんとも……」
「まだ、何かあるのではないでしょうね」
「ひぃ~」
「か、薫? そ、その視線は不味いって。シクワンもこっちが知らないことも分かんないだろうし、こっちもシクワンが知っていること分かんないんだから、……え~と。あっと、つまりね」
「分かっているわよ。お互い相手のことを知らない以上、落ち度があっても仕方がないわね」
楓の機転(?)で、薫の刺すような視線は和らぎ、ひとまず納得したようである。
それでもシクワンは、怯えが消えるまで楓にしがみついていたのは言うまでもないことである。しかし、この状態は何処かで聞いたような見たような気がするのは気のせいかもしれない。
その後、食堂に到着した三人は、各自のお昼を受け取りテーブル席へと着いていた。
「藤本さん、元気がないように見受けられますが、どうされましたか?」
「ん? え~とね。午後も原料探さないといけないなと考えてた」
「原料、ですか」
「そ。……でも、何処探すのぉ。うわぁ~。やだぁ~」
ここに来るまでの元気が嘘のような状態の楓に、シクワンが心配そうに訪ね、楓が子供のような態度を示していた。
「そうね。発注でもする必要があるのかしら」
薫も同調するかのように、半ば投げやりとも取れる口調で呟いていた。
「原料ですよね」
「ん? そうだよ」
「ないんですか?」
「うん。ない」
「……発注するにはどうすればいいのかしら」
楓と薫のやり取りを聞いたシクワンは何やら情報を持っていそうな勢いで二人に確認をしている。
「いえ。そんな話は聞いてないですね」
「発注の仕方が分からないとでも」
「違います。原料がないと言うことに対してです」
「うっほだぁ。んぐ。何処探しても袋とか箱なかったよ」
楓の言葉に、再び“何ですか”と言いたげに小首をかしげるシクワンであった。と直後に食事の手が止まる二人がいた。
「やはり。まだ教えて頂いていないことがあったようね」
そう呟いた薫の視線は冷たく刺すようであり、その視線により、条件反射の楓を含めシクワンを硬直させたようである。
カランと落ちる音がした。それは竦み上がったシクワンが箸を落としたためであった。隣りにいる楓も同様の筈だが影響は小さいようである。この状態はまるで楓と聖美を見ているようである。
はたと今の視線は自分にではないと気が付いた楓は、シクワンの顔を薫から外した。
「どう言うこと?」
「な、何がです?」
「おぉ、ええ~っと。袋や箱に入ってないって事?」
「え~と。袋とか箱と言う物は見たことがありませんのでなんとも言えないのですが」
「あぁ、え~っとね。入れ物的な物って言えば分かる?」
「入れ物、ですか。少々分かりかねますが、確かにそう言った類の物に入った何かを見たことはありません。だとすると原料も同じではないかと思います」
「じゃぁおてあげじゃん。はむ、はむ。そんなどこからか涌いてくるなんてあり得ない……?」
「何か思いついたのかしら?」
「! まさか、トイ……」
「それはないわね! 楓、探すんじゃありませんよ!」
ああでもないこうでもないと、原料について談義した三人は、お昼を終えて作業場に戻ろうとしていた。
「あぁ、何か今日のお昼はせわしなかったよぉ。味も何かよく分かんなかったしぃ」
「こ、これは申し訳ないです。私がご一緒した所為ですね」
楓の愚痴を聞いたシクワンが申し訳なさそうに項垂れながら謝っていた。
「ち、違う違う。シクワンの所為じゃないって」
必死に否定するのだがシクワンは項垂れたままだったため、懇願の眼差しを薫に向け助け船を期待する楓がいた。
「……しょうがないわねぇ。シクワン」
「はい」
「楓に悪気はないのよ、ちょっと正直なだけなのよ」
「む! それって考えなしに喋ってるように聞こえるぅ」
「あら。そう聞こえたかしら?」
「ぶ~」
楓の懇願は思わぬやり取りをうんだが、そのやり取りがおかしかったようで、うっすら涙を浮かべながら吹き出して笑うシクワンがいた。
「……ま、いっか。シクワン元気になったし。で、シクワンはこの後どうする?」
「あ、はい。この後は用事がありますのでこの辺りで失礼します」
「うん。じゃ、またねぇ」
楓が言葉で見送る中、薫は複雑な思いがあるのであろう、言葉を発することなく去って行くシクワンを目で追っていた。
3クリックすると展開/収納を切り替えます。
「うっ。出入り口またやるのかな?」
「そうねぇ。どうかしら」
「うぅ。ないといいなぁ」
シクワンと別れた二人は、作業場に辿り着いたところで、楓がいやなことを思い出したようである。
懇願する楓の思いが通じたのであろうか、建物のドアはすんなり開いて入ることが出来た。
「でも、こっちが……。薫に譲る」
「しょうがないわねぇ。慣れなさいな」
「その内……」
どうにも慣れないロック解除に辟易している楓は、薫に譲ることで難を逃れようとしたが、やぶ蛇であったと項垂れることとなった。
「う~ん。袋入りでも箱入りでもない。じゃぁいったいどうやって保管してるんだろう……」
実験室に入った楓は、ドアを背にして唸り始めてしまったようである。
地球の習慣から袋や箱入りと決めてかかっていただけに、雲を掴むような話に転換してしまい困り果てる楓であった。それは薫も同様であろうが、ひとまず楓に任せているので、薫は備品の整理の続きを始めたようである。
「……楓またなの。あまり彷徨かないで頂戴」
「……」
「……はぁ。しょうがないわね。我慢しましょ」
ドアの前に立っていた楓がいつの間にか辺りを彷徨き始め、靴音などによって若干気が散り始めた薫であるが、声を掛けても反応しなかったことに真剣であると認識し注意することを止めたようである。
只彷徨いていた楓が、壁を触って調べ始めた。仕舞いには床に座り込んで触り始めると……。
「楓。流石に床にないと思うわよ」
「あはは、そ、そうだよね。流石にないよねぇ」
笑ってごまかしながら立ち上がって、薫が使っている実験台に移動していった。
「むむむ。こっちは薫が使ってる、けど薫ちょっとごめんね」
「ちょっと楓。私の周囲には何もないわよ」
「そうだよね。で、後は流し……。流石に何もないよねぇ。で、あっちも同じ筈だけど……」
呟きながらもう一台の実験台へと移動しテーブルの部分を隈無く調べていった。
「……やっぱ何にもないよねぇ。後は流しだけど、ここも同じだし……。流しの中は何もなし、後は蛇口があるだ……。なんだこりゃ」
その素っ頓狂な声に反応した薫が、整理している手を止めて楓を見やる。
「ん? ん~。そっちにはなくてこっちにはある。これって管? でもきったないなぁ、拭く物拭く物」
バタバタと走り回っている楓に、気が散ったのか薫が声を掛ける。
「何かあったのかしら?」
「えっ? あのね、もう一台の実験台に汚いとこがあるから拭く物探してるぅ」
薫の質問に答えながら小部屋へと入っていく楓。
「何処が汚れているのかしら?」
「う~んと、流し。……ないよねぇ、やっぱあっち?」
楓の独り言が小さくなって消えていった。どうやら小部屋を出て行ったようである。
「……きんないしぃ。これで大丈夫かなぁ?」
戻ってきた楓の手には見慣れた物が握られていた。
「何を持っているのかしら?」
「ん? トイレットペーパー。あぁ、だって拭く物これしかないんだもん」
言い訳しつつもう一つの実験台に寄って行き、流しの低い方の蛇口と思しき物をこすり始めた。
汚れと格闘を始めて五分程が経った頃、作業している楓の周囲にはぼろぼろにちぎれたトイレットペーパーの残骸が散乱していた。
「駄目だぁ~!」
叫びながら万歳して仰け反る楓は、大分お疲れの様子である。
「もう根を上げるのね」
「違うよぉ。こびり付きすぎてるから溶剤か何かがないと落とせない、多分……」
憤慨しつつも疲れたのであろう楓は、椅子までやってきて座るだけではなくテーブルに突っ伏してしまった。
「しょうがないわねぇ」
そう言った薫が席を立ってもう一つの実験台の流しへと向かって、楓が格闘していた蛇口らしき物を眺めたところ……。
「これは……。本当に汚れなのかしら?」
「へっ? よっこいしょ。う~ん」
楓は薫の言い分を確認すべく、唸りながら念入りに再確認している。
「あっ! これ違うかも」
「それで。その根拠を説明して貰えるかしら?」
「んとね。蛇口らしき物もあるし、単純な汚れかと思ったの。けどよくよく確認したら汚れと言うよりは出てきた物質に含まれる不純物の蓄積ではないかと思う。う~んと。古い水道の蛇口付近が白くなるのと同じ理屈じゃないかと。簡単に言えば液体が出てくる際ないしは受けた際に出る飛沫の類じゃないかと思う。けれど付着の仕方がいびつだから、不純物じゃなくてその物の可能性もあるなぁ。それで完全な液体ではない可能性もある、ゲル状だった場合は出てくる際の圧力の関係で盛り上がって付着したとか、これはちょっと強引な理屈、かな」
「なるほど、凄いわね」
そう呟いた薫に対して、エッヘンと言ったポーズをした楓は、どことなく誇らしそうに見えた。
「ふふふ。楓のことを褒めた訳ではないわよ」
そう切り替えされた楓は、頬を膨らませていたのだがそのまま唸り始めてしまった。
「どうしたのかしら?」
「ふっ?」
「唸っているからよ」
「おぉ。え~、あぁ、うん。考えてたんだけどね。汚れじゃないと仮定するなら、素手で触るの不味いかもって」
膨れていた楓は、そう話しながら幾分か真剣な表情へと変わっていった。
「そう言うことね。……そうだとすると、楓は大丈夫なのかしら?」
「うん。……多分。まぁ、消毒くらいはした方がいいかな。薫、消毒用のアルコールってあった?」
少々不味いかなといった表情をする楓に聞かれた薫は、紙に書き出している中にないか確認を始める。
「う~ん。薬品の類はあまりなかった筈だけれど……。消毒用のアルコールは見た覚えがないわねぇ」
「げっ! うそ。それは不味いかも……」
「ちょっと待っていなさい。もう一度、棚も確認するから」
「う、うん」
薫が見覚えがないと言うことは、ないと諦めるしかなかった楓の表情は幾分か暗くなったまま、流しの前で立ち尽くしていた。
理由はある。今のところ何の症状も出ていないが、下手に触って何か反応が起きても困るからである。
「あったわよ」
「おぉ、良かったぁ」
「だけれど変ねぇ? さっき見たときはここになかった筈……」
「ぶ~。考えるの後がいいなぁ」
「あら、そうだったわね。で、どうすればいいのかしら?」
「うっ。え~。どうしよう……」
「……考えておきなさいな」
「あうぅ。……おぉそうだ、金だらい……はなかったかぁ」
消毒用のアルコールを手に持ったまま、薫も「見てないわねぇ」と思い出そうとする。楓の方はタライで浸す以外の方法をあれこれと考えているようである。
「……もったいないけどしょうがない」
「いって頂戴。何でもするわよ」
「うん。水を少なめで流しっぱなしにして、蛇口の辺りからアルコールを流して」
「分かったわ。水はこれくらい出せばいいかしら?」
「うん。容器は水に触れさせないでね」
「……なるほど、容器の口から逆流させないようにするのね」
「さっすが薫。せっかくのアルコール薄まっちゃうからね」
それ程大事ではないにも関わらず、何故か二人共真剣な表情で作業に、いや楓の手の消毒に掛かっていた。
念入りにとは言え、爪の間まで丁寧に消毒した楓は、ぬれた手を拭おうとしてハンカチの類がないことに気が付いた。が、「あっ、代用代用」といってトイレットペーパーをちぎって手を拭いていた。
「さてと。で、もしかしたらだけど。これが原料かもしれないよぉ」
「楓、何を突然言い出すのよ。……そうね。考えてみれば、本来の蛇口はここにあるのだから、いびつな形の蛇口がもう一つあるのも違和感はあるわね」
結論めいたことを口にした薫に対して、“でしょう”と得意げな表情をしている楓がいた。
「それで、この後はどうすればいいのかしら?」
そう言われた楓は表情が一変し、項垂れて「そうだよねぇ」とぼそりと呟いてしまう始末である。
一つの事柄毎に一喜一憂するのは、楓の得意技であるのかもしれない。いや、一般的な事柄に対して先を読まないだけなのかもしれない。
「詰まってるのかなぁ?」
「何処かに元栓があるのではないの?」
「う~ん。まぁ出てないもんはしょうがない! え~と、あれが使えるかなぁ」
悩んでいた楓が突然動き始め、説明がない薫はそれを見ているだけであった。
「それで。何を思いついたのかしら? 説明して頂戴」
棚の中を物色し始めた楓がびくりと体を硬直させた。どうやら、説明されないことに対する薫からの抗議の視線を受けたようである。
「あれ? あっ、そ、そうだよねぇ。説明……しないと。あは、あははは……」
「それで何をするの?」
「えっと~。金属性の器具でこの蓄積物を削り取ろうかと……」
「分かったわ。必要な物を言って頂戴、用意するわよ」
「は、はい! 薬さじとペトリ皿。あっ、金属製の尖った物なんかあったら薬さじよりいいんだけどね」
「記憶にはないわね。薬さじはこっちでペトリ皿はあっちよ」
薫の指示で、楓は移動して棚からペトリ皿を取り出し、右手に薬さじ、左手にペトリ皿を構えて、いざ蛇口と思っていた謎の物体に付着している物質を削り始めた。
「フン! あぁ~堅い……なぁ、もう」
原料と思しき物との地道な格闘が始まった。
格闘すること十数分。
「ふぇ~。疲れた。でもこんだけだし……」
薬さじを握ったまま、額の汗を拭っている楓であるが、ペトリ皿の上には破片と言うよりは粉末に近い物が少量乗っていた。
「とりあえず、これで実験しようか。はぁ」
「お疲れ様。とは言え、化学に関しては貴方だけが頼りですからね。しっかりやって頂戴」
「うん! でも、薫ってば元気ない?」
良い返事をした楓は満面の笑みであることを伝えておこう。それと“頼りにしている”といった薫の表情は、幾分か心配そうであることも付け加えておこう。
「そ、そんなことはないわよ」
「む~。……あぁ、もしかして失敗しないか心配してるんじゃないでしょうね」
「だ、大丈夫よ。楓のことは信じているもの」
「ホントかなぁ」
疑いの眼差しを薫向ける楓に、その視線を受け流そうとするかのような薫であった。
「ま、いっか。さてと。どうしたものか……」
「……」
楓の結論を待つ薫の表情は、期待半分不安半分と言ったところである。
「ふむ。物が物だけになぁ。あ~、でも……。やっぱ液体にしないと駄目かぁ……」
「結論は出たかしら?」
「ん? 出たというか、まぁ、やってみないと分かんないからねぇ。でも、そうだなぁ。固体だとどうしようもない……かぁ。うん、良し!」
「どうするのかしら?」
「液体状にしないと進みようがないから、直接加熱と熱湯で溶けるか確認する」
「用意する器具を言って頂戴」
「ほ~い。アルコールランプとスタンド、試験管と試験管ばさみ。あ、後はゴム栓にガラス管を通した物……かな」
「分かったは。え~と。アルコールランプとスタンドはそっちの棚ね。試験管はガラスだったわね、それはこっちね。試験管ばさみもそっちね。ガラス管付きのゴム栓は、なかったかしら。どうしましょう」
薫がてきぱきとまだ全てを整理していないにも関わらず、何処に保管しているかを把握しているようである。
「ないの?」
「えぇ」
「ゴム栓とガラス管は?」
「ガラス管は、ガラス関係と一緒だった筈。ゴム栓はそっちにあったわよ。別々でも良かったのかしら?」
「大丈夫、穴開けてぶっさせばいいから」
「穴を開ける器具あったかしら?」
薫の言葉に、「ガラス管砕くから大丈夫」と少々物騒なことを口走りながら、薫の指示した棚から全ての器具を揃えることが出来たようである。
「もう、薫ってばぁ。ちゃんとゴム栓にガラス管通したのあったじゃん」
訝しみながら「おかしいわね」と呟く薫を余所に、楓は上機嫌であった。
てきぱきと器具を設置していく楓と、試験管ばさみに試験管を挟むときに緊張していた薫であったが、実験の準備は整った。
「うん。準備完了! さてさて。後はアルコールランプに火を付けるだけ」
そう言った楓は、アルコールランプの蓋を外して「おっと、マッチは?」と唐突に呟いた。
「あら、そう言えば見当たらなかったわねぇ」
「えぇ~。アルコールランプあるのに、マッチがないって片手落ちじゃん」
パチッとアルコールランプの心が発火した。
「ん?」
その光景に“何?”という表情をする楓と“またなの”という表情をする薫がそこにいた。
「おぉ~。これはすんごい~」
呟きながら目を輝かせ、ともすればアルコールランプの火に近付こうとする楓の肩を掴んで引き留めた薫が……。
「……そうだったわね。思いが実現する場所だったわね、ここは……」
「ぶ~。そうなんだけどさぁ。もう」
薫の冷静沈着ぶりに、ぶつくさと文句を言いながら現実に引き戻された楓は火であぶられている物質の変化を注視し始めたようである。
試験管の傾きと火の当たる位置を調整する楓。
試験管を傾けているのは試験管を熱から保護する目的と、熱を加えられて液化した際に試験管への急激な熱量の変化を抑えるためである。それと、ゴム栓で蓋をしているのは、液化した場合に飛び出さないようにするため、ガラス管を通しているのは気化して容積の増大による破裂を防ぐためである。
「この装置、何か足りないような気がするわねぇ」
「さっすが薫。桶の類があれば、ゴムホース繋いでビーカーで気化した成分を受け取るようにするんだけどね」
「……それでは、得体の知れない物が蔓延することにならないかしら?」
「うん。そうなるんだけどね。えへへへ」
「あぁ……。人体への影響は?」
「分かんない」
楓のその言葉に、額手を当て首を振る薫は何も告げることはなかった。
楓が行おうとしている実験は、チャレンジングでは済まない危険きわまりない物となるようである。そうは言っても、原料を探さなければならない都合もあり致し方がないと考えているのかもしれない。
実験に集中を始めた楓は、薫が「整理を続けるわね」という言葉に素っ気のない返事を返すだけであった。
「はぁ」
溜息を一つついた薫は、整理中の紙を持って棚の確認作業を再開した。
加熱すること十数分。
「あっ! 隠れて!」
実験経過を注意深く観察していた楓が、突然に叫んだ。その正に直後、試験管が割れ爆発した。しかし、試験管の割れる音が殆どで爆発音は小さかったようである。
「何事なの? 危なかったわよ」
呟いた薫は、間一髪で実験台の下にしゃがめたようである。
「そんなこと言ったってぇ。瞬間だよ? 一気に膨らんだから火なんて消す暇なかったしぃ」
実験台の下に身をかがめながら薫の言葉にぼやく楓であった。
しかしながら少量であったことが幸いしたのであろう。楓がいる実験台傍にある器具を保管する棚の引き戸への影響も小さいようである。
一分程経った頃、用心深く実験台下から楓が顔を出した。
「大丈夫……だよ」
そう言って立ち上がりながら「びっくりしたよぉ」と呟いた。
「結局、何が起こったのかしら?」
「げっ!」
そう呟いた薫は、もう一つの実験台の向こう側から立ち上がるが、その表情はややご立腹のようで、それを見た楓が怒られると身構えてしまっている。
ギクシャクしながら楓は視線を実験台の上に向けると、割れた試験管の破片が散乱していた。
「おっと。火は……。あっ、流石に消えてたよぉ」
ほっと胸をなで下ろしながら、上を向いた楓が「うわっ」と声を上げたのには理由があった。爆発の力はどうやら殆どが上方向に向かったようで、それを示す痕跡が転々と広がっていたからである。
壊れたのは試験管だけのようであるが、予想だにしていなかった事態に溜息をついてしまう薫がいた。
「……おっと。箒、箒」
我に返ったのであろう楓が、慌てて片付けを始めようと掃除用具を探して室内を駆け回った。
飛び散ったガラス片をちりとりで集め終わると「終わったぁ」と呟きながら額を拭った。
「あら? 箒とちりとり、何処にあったの?」
「ほっ? そこ」
楓が指さした場所、器具を保管する棚の並び、その端に掃除用具のロッカーがあった。
「そう言えば。いつからあったっけ?」
薫に聞かれたことで疑問に感じたようであるが、「そうね」と半ば投げやりとも取れる口調で返す薫である。
「素っ気ないなぁ」
「……」
楓の言葉に何も返さない薫の表情からは、今のところ理解出来ない事象であること、尚かつ説明されてもいないことから、どうしようもないと言いたげでもある。
「さて」
薫の思いを余所に、爆発があった後にしては元気のある楓が、呟きながら後片付けと次の準備に入ったようである。
「え~と。アルコールランプは使うとして、スタンドと試験管ばさみはしまってと。薫ぃ、三脚と金網は何処?」
「……金網は、そうね。こっちだったはずよ」
もう一つの実験台傍の棚から金網を持ってくる薫は、幾分か表情が戻っているようである。
「それから、三脚ね。どんな物だったかしら」
「え~、って。そうだよねぇ物理じゃぁなじみがないかぁ。わっかに足が三本ある奴」
「それなら、アルコールランプを保管している楓の後ろの棚にあった筈よ」
「分かった。後、ビーカーは?」
「試験管と同じ棚よ」
「ほ~い」
てきぱきとした動きで用意した器具を設置していく楓である。
「水はこれくらいかな?」
ビーカーの三分の一程に水を入れ、三脚の上に敷いた金網の上に載せ、採取した物質からごく少量を入れた。
「よし。準備完了」
呟きながらアルコールランプの蓋を開け「火が欲しい~なぁ」と口にすると、やはり芯が発火して火がついた。
「う~。やっぱこれも謎だよねぇ」
などと呟くも薫からは何も返ってこなかったため、薫の方を見ると既に整理を再開していた。実験に興味がないという訳ではなく、効率を考えてのことであろう。
ビーカーに張った水は、次第に気泡を発生させていくが、今のところ当の物質には一切の変化が見られず、楓としては唯々待つしかないようである。
そして気泡が大きくなり沸騰し出すと物質は踊り始めた。それでも変化は見られなかった。
「む~」
唸りながらも辛抱し、実験の結果を待っている楓であるが、テーブルに顎を乗せているところを見ると大分飽きてきたようである。
十分程経った頃「あっ!」と楓が声を上げた。
「何?」
楓の叫び声に、声を上げながら身をかがめる薫がいた。
「あぁ~。もう!」
実験台の下に隠れた薫の耳に、楓の嘆く声が届いた。
「……今度は何が起こったのかしら?」
恐る恐る実験台の下から顔を出す薫は、楓に何が起こったのか問いただす。
「え~。また一瞬だったし。今度は黒くなるしぃ」
「なるほど。見事なまでに真っ黒ね」
「あぁ。もう! 薫ぃ」
「見たままの感想を述べたのだけれど?」
薫のあまりの冷静な感想が、楓を暴れさせそうな程であった。
無理もないであろう。今日だけでも地球ではあり得ない紙や筆記具、掃除用具までもが現れ、果てはアルコールランプには自動で火が点いたのである。理論的解釈を得意とする薫にすれば散々な目に遭ったと言わざる終えないからであろう。
「だぁ。これって、後で使えるのかなぁ?」
失敗した物からでも、何かを得ようというのであろう。この辺りは化学を専攻する学者肌といえるのかもしれない。
「あ~あ。どうしよう……」
片付けを終えた楓が、実験台に肘をついてぐったりしている。
とりあえずで始めたとは言え、初歩的な実験が失敗したのである。この後の実験をどうするべきか悩むところである。
「……そうねぇ。水のままで攪拌してみるのはどうかしら」
「う~ん。それもね、手としてはあるんだけどねぇ。熱湯であれだったから、どうだろう……」
ビボボンビボボーンとメロディのようなそう出ないような音が鳴り響いた。と同時に突起があらゆる色で瞬いたが点滅はしていない。
「今度は何ぃ」
「音が小さくて助かるわね」
「もう! だから何」
「……そう言えば、お昼と同じ音ね」
「はい? ん? って事は……」
「そうね、楓の好きな食事の時間、と言う事かしらね」
「ご飯? そっか、ご飯かぁ」
落ち込み掛けていた楓は、“ご飯”という言葉で表情が明るくなったようである。
「ご飯。ご飯」
「薫ぃ、ご飯食べに行こうよぉ」
「そうね。こちらも切りがいいから今日は終わりにしましょう」
「終わり?」
「そうよ。お昼の後の食事は夕食でしょ。ですから、作業の続きは明日にしましょう、と言う事よ」
「そうしよう、そうしよう」
ご飯だけではなく、作業も終わりと聞いた楓は、みるみるうちに満面の笑みとなって、スキップでもふみそうなテンションになっていた。
実験室を後にして、ロビーから表に出ると、確かに暗くなり始め夕食時であることが伺えた。
「あっ、電気消して……。おぉ、電気消えたねぇ。あっ、もうドア開かない」
「……そう言う仕組みなのね」
作業場を後にした二人であるが、楓が只一人はしゃいでいた。
「ご飯、ご飯」
「……楽しそうね」
「そりゃぁもう。ご飯だよぉ」
「そう……。うふっ。夕飯の献立は何かしらね」
「そうだねぇ。楽しみだよねぇ」
はしゃぐ楓を見ていた薫の心も、いつの間にか安らいでいることに気が付いたようである。
食堂に到着した二人は、楓に急かされつつ食事を配給する配膳機の下に手を差し入れる。
「ふむふむ。薫のはあたしとは違うんだねぇ」
「そのようね」
「他の人とも違うのかなぁ」
「覗き込んでは失礼よ」
「分かってるよ。それくらい」
釘を刺されて膨れる楓ではあるが、テーブル席へと向かった。
「あぁ、食った食った」
「楓。言葉遣いが悪いわよ」
「えぇ~」
夕食を終えた二人は、食堂を出て住居へと向かっていた所……。
「あれ?」
楓が何か違和感を覚えたようである。
「どうしたのかしら?」
「う~む。この辺りに建物なんてあったかなぁ?」
「そうねぇ」
そう呟いた薫が改めて辺りを見回して……。
「……確かに、どことなく違いがあるように思えるわね」
「ちょっと待ってて」
そう言った楓は、薫を残して食堂の方へと戻り、ゆっくりと辺りを確認しながら薫の元にやってきた楓が……。
「朝になかった道が一本増えてる。って事は建物が増えたって事でいいのかな?」
「ちょっと待ちなさい。そうなると、住人が増えたと言うことになるのかしらね」
「そうなるのかなぁ。でも、何でだろうね」
薫にした質問ではないのかもしれないが、その問いに薫は何も返答が出来なかった。
~第四章 「模索」 完
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