1クリックすると展開/収納を切り替えます。
「違う違う」
「あ~。これじゃ、分からない」
「だめだぁ~」
「うぉ~」
ここは、ATSUBB専課学校。その講義棟内の至る所で生徒達の声が響いている。その生徒の中には、当然、楓達も含まれているのである。コンパートメントで、各々に出来る調査を続けている訳だが、その課程で、熱くなったり失敗したりで、どうしても大声が出てしまい、夢中になっている分お構いなしである。
「流石に、手が痛いわね」
「明子ぉ。大丈夫ぅ?」
両手をぶらぶらさせている明子を見ながら、交代して端末の操作をしている楓が、心配そうな表情で呟いているのである。
「大丈夫よ。でもかなり疲れたわ」
「いいなぁ。薫は変わってくれないし……」
聖美は、ぶつぶつと愚痴を呟いてはいるものの、端末の操作を止めることはしない。そこが聖美の良いところである。
「それは仕方がないわね。この方が指摘しやすい上に、聖美をさぼらせないで済むからよ」
「ひ、酷い。あたしはさぼり魔じゃないよ」
「日頃の行いを省みなさい」
「う~」
膨れる聖美だが、そもそも遊びたがっているのは明白である。よって、このような仕打ちにあうことになる。自業自得と言ったところであろうか。それでも、何か納得いかない様子の聖美である。しかし、「はい。次行くわよ」とすかさず、薫が叱咤する事となったのである。
「分かってるよぉ」
「ぷっ」
その光景を見ていた楓が吹き出してしまったようである。確かに、端から見ても微笑ましい光景であるのだが、「手が止まってるわよ、楓」と今度は楓が怒られる始末である。
「ぶぅ~。いいじゃない、少しくらい」
ふくれっ面で文句を垂れる楓である。
いやはや。この二人の挙動を見ていると、どうしてもさぼっているように見えてしまう。二人なりにやっているのであろうが、性格の所為であるのか言動の所為であるのか、どうしてもそうは見てもらえないところがある。
それにしても、楓と聖美は、やはりよく似た性格である。それを心得ている薫と明子だから、この四人は上手くいっているのであろう。
さて、調べる情報が乏しい中、生徒達は賢明に情報と格闘していた。そんな所に、「ピンポーン」と構内スピーカーらからチャイムが聞こえてきた。
「登校中の生徒の皆さんに連絡です」
校内放送が流れるや否や、全ての生徒が放送に注目し、キー操作していた手を止めたようである。
「学生連絡会から正式な調査の要請がありましたため、緊急の会議を行っている事、また、速報としてその要請を受け入れたことも併せて連絡します。追って、緊急会議の決定も連絡します」
「よっしゃぁ~」
「やったね」
構内で、歓声が上がったのは言うまでもない。要請を受理したのだ、尚更である。その歓声を上げている生徒の中に、楓と聖美も含まれているのは言うまでもない。
「やったぁ~」
「きたぁ~」
かなりのはしゃぎようで、狭いコンパートメント内で飛び跳ねている。その姿は、殆ど子供と同じである。そのはしゃぐ二人を見ながら、「二人共、はしゃぎ過ぎよ」と、間髪を入れずに薫が注意を促している。放っておくと際限がない二人である、致し方がないであろう。
「へっ? そうかなぁ」
「この学校が選ばれたんだよ。世界にいっぱいある大学や専課学校の中から、だよ。薫も喜ぼうよぉ」
「そうね。名誉ではあるわね」
「薫。冷静すぎると、モテないよ?」
「余り関係はしないと思うけれど。……いいわ。確かに喜ばしいことだものね」
「そうそう。……くぅ~。全世界の学生と、一緒に調査できるんだよね。ワクワクするね」
楓達だけではない。ATSUBB専課学校に登校中の全ての生徒が同じ状態であろう。付け加えるなら、学生連絡会は、企業や各国政府などからの調査、実験・実証などを引き受けることもある。そう言う観点からも、今回の出来事はまさに該当する。いや、しない筈などないと言った方が適切であろう。何せ、地球規模での災厄であるのだから、連合・政府機関、企業に限らず、あらゆる手段を講じるのは当然である。
「よし。これで、こぢんまりした調査から解放されるぞ」
「そうそう。実験棟で大がかりな調査が出来る」
楓達がいるコンパートメント付近にいた生徒の声が聞こえてくる。それだけではない。至る所で、大声、あるいは密やかに、歓喜の声が響いていた。中には、楓や聖美のように体で表現する生徒もいたようである。
「さ、これからが本番よ。気を引き締めなさい」
逆鱗、ではない。はしゃぐ二人を集中させるためには、薫の一括が一番であろう。その証拠に、みるみるうちに二人の表情が引き締まっていくのが分かる程である。とは言え、そこは二人である、あっという間にいつもの表情に戻って「おし。やるぞぉ」「おぉ!」と気合いは十分のようである。
楓の傍らで、明子がくすくすと笑っている。二人の浮き沈みがおかしかったのであろうか。
「あぁ、明子が笑ったぁ」
「ごめんごめん。でも、二人はいつものままでいいわねぇ」
謝りながらも笑っている明子。その言いたいことが分かりかねたのか、楓と聖美は、“何を言いたいの?”と言う表情をしながら顔を見合わせている。
ATSUBB専課学校の中で、調査が行き詰まっていただけに、この学生連絡会からの要請は雰囲気を一変させた。高揚感さめやらぬうち、心機一転で調査に没頭する生徒達である。その中に、引き締めた筈が、既にゆるんでいる生徒がいた……。言わずもがな、楓と聖美である。表情からは、どうしても待ちに待った遠足か、あるいは運動会がやってきた、とイメージさせてしまうのは二人の性格故であろう。
「聖美。表情がゆるんでるわよ」
「え~、大丈夫だよ」
しまりのない顔をしている聖美に注意を促す薫だが、どこまで聞いているのやら。
「いつまで、同じページを見ているつもりなのかしら」
灸を据える薫から刺すような視線を感じたのか、身震いする聖美の表情は、大分引き締まった状態に変わっていた。
一方の楓も、似たようなもので、「楓、それじゃ読めないでしょ」と、明子に注意される始末である。何故なら、次のページボタンを押しっぱなしになっているからで、頭を抱える明子がそこにいた。
「楓。明子の声が聞こえていないのかしら」
矛先を向けられた楓も身震いする。表情が引き締まった楓と聖美は、調査作業に戻ったのは言うまでもない。
楓と聖美が、嬉しさの余りに緩んだ気持ちを戻した頃を見計らったかのように、「ピンポーン」と、再び構内スピーカーからチャイムが聞こえてきた。
「学校からの連絡です。緊急会議の結果、正式に調査要請を受諾し手続きに入った事を連絡します。合わせて、実験棟も使用して調査を行う決定がされましたことから、午後から使用する準備を始めます。尚、現在は、実験棟にいる研究員が少なく、生徒の皆さんにも協力をお願いします」
「おっしゃぁ~」
「うわぁ~」
実験棟の使用許可が出るであろうと予想はしていても、正式に許可が出たとなれば、只でさえ高揚しているところへ、更に、特大の花火が上がった状態である。これで、歓声が上がらない筈もない。それでも、直ぐに実験棟の準備に入らないのは、まもなく昼を迎えることからなのであろうし、心機一転の仕切り直しという意味もあるのかもしれない。
実験棟が使えると言うことは、装置やら専用機器を使えると言うことである。この時代、バーチャル上でもかなりの調査は可能となってはいるものの、それでもまだ、機器を使う方が、詳細に調べる場合の精度が上であるのが実情である。
他にもある。学生連絡会からの要請と言うことで、通常は閲覧制限のかかっている情報が利用できること。学科にもよるが新発見に関われることがある。それは、研究員ではない生徒にとっては名誉なことであり、その後の自信にも繋がる訳で、浮かれるなと言うのは無理な相談であろう。
一方で、冷静な人物もいた……。
「盛り上がり過ぎね」
「あんで?」
「学生連絡会からの要請と言うことは、調査結果に公的な意味が含まれると言うことよ」
「おぉ。そうだった。と言うことは……。大変だぁ! 聖美、聖美」
「あによ」
「公に公認されるんだよ、あたし達の調査結果」
「? あっ、そうだった。すっかり浮かれて忘れてた」
「いい加減な結果は残せない、と言う事よ。分かっているのかしら」
薫に言われて、はたと気が付く二人であった。そう。公的な意味があると言うことは、責任が出来る、と言うことに繋がる訳である。が、生徒個人が責任を直接問われることはまずない。学校の権威には影響するであろう。学生連絡会とは、それほどに影響力があるのである。
2クリックすると展開/収納を切り替えます。
「おぉ、すんごいことになってる」
「あんたもその一人でしょ。……とは言え、熱いんだから、早く入れて欲しい」
お昼休みも終わり、地上にしか出入り口のない実験棟の入り口付近には、生徒が大挙して押し寄せている。だが、どうやら、まだ中には入れない様子である。
「ホント。暑いねぇって、うげっ!」
楓が左腕の携帯端末に目をやると、気温がすさまじい事になっていたようである。
「だめだ、四〇度超えてるよぉ。早く入れて欲しいぃ」
「あんで、あたしの話無視すんのよ」
「分~か~って~る~よ~」
聖美の突っ込みを無視した形の楓に、更に突っ込みを入れつつ揺する聖美だが。楓の言葉に揺するのを止めたようである。
「でも、どうすんの?」
「え~っと。う~む……」
答えを用意していなかったのであろう聖美は、唸り声を上げて考え出してしまったのである。
「静かにしなさい」
薫が二人の漫才を制すると、実験棟の入り口に立っていた人物から声が聞こえてきた。
「生徒の皆さん。早々に集まってくれたようですが、只今ラボの割り当てを検討中です。決まり次第放送しますので、講義棟で待機してて下さい」
この言葉に、詰めかけた生徒達が三々五々、実験棟を後にする。当然、四人も講義棟に戻る事にしたようである。
「で、この後どうする?」
「お茶にしよう」
「そうだね。後は……、ケーキがあれば最高だね」
「そうそう」
はしゃぐ二人だが突然、悪寒が走り振り向くと、歩きながらも腕組みをして睨みをきかせる薫を視界に捉えたのである。
「や、やっぱ、調査しようかぁ」
「そ、そうだねぇ」
声が上ずっている聖美と楓。それを、薫の傍らでくすくす笑っているのは明子である。
「何を微笑んでいるのかしら」
「あら。なるほどね。あっちの怯えとは無関係のようね」
状況が掴めない薫に、明子が指さしながら答えたのを見た薫は、得心を得たようである。
「あら。何を怯えているのかしら、二人共。また、よからぬ事でも考えていたのかしらね」
条件反射のように、首が痛いのではないかと思えるほど横に振る二人であった。余り楽ばかりを考えない方が良いと言ったところであろうか。
そんな二人を優しい表情で見ながら「さ。荷物をまとめに戻るわよ」薫はそう言い、先に立って講義棟内のコンパートメントへと向かうのであった。
陣取っていたコンパートメントに入ると、四人は荷物を片付け始める。
「ここの端末、落としていい」
「待ちなさい!」
楓が、今にも停止させようとしながら確認すると、声を張り上げ制止したのは薫である。
「うわっ!」
「か、楓、また何かやった?」
びっくりして手を止める楓と、こちらもびっくりしつつも突っ込みを忘れない聖美であった。
「楓。今までの検索結果や整理した情報、保存したの?」
「え、え~と。まだだっけ?」
「まったく……。聖美も、きちんと保存しなさい」
「あんで、あたしまで」
「手早くなさい」
薫の語気の強い言葉を浴びせかけられた二人は、「は、はい!」と、大あわてで保存を始めたのである。
薫と明子でやってしまえば早いのだろうが、ほうって置くと競い合いが口喧嘩になってしまう二人である。何かやらせておいた方が安心なのかもしれない。
楓と聖美を叱りつけながらも片付けが終わる頃、校内放送が入る。
「実験棟のラボ割り当てが決まりましたのでお知らせします。講義ラボ一〇一は、物理学科。講義ラボ一〇二、一〇三、一〇四は、全学科で共有しますが、講義ラボ二〇二、二〇三、二〇四については、今後の状況により検討します。学校教授のラボについては調整中です。尚、本日登校している生徒の方々で、学科毎に交代で調査を行う予定です。準備については、学科毎にラボ内を区分けしますので……」
楓と明子は率先して準備の手伝いに加わるが、聖美はパス。よって、保護者的立場として薫も不参加となった。
二〇分ほど後。楓と明子は、実験棟の講義ラボ一〇三にいた。ラボ内で化学科に割り当てられたスペースに、慌ただしく機材が設置されていく。
「明子、これどこ置く?」
楓が機器を抱えながら明子に確認する。
「えっ? あ~。それは欲しいわよねぇ。……じゃぁ、これと入れ替えましょ」
二人だけではなく、そこかしこから、設置やら何やらの確認の声、果ては、怒鳴り声が飛び交っていた。
「配線これで良いんだっけ?」
「分解装置どこいった」
等々、慌ただしい事この上ない。何故こんな事になっているかと言えば、通常のカリキュラムにおいては、講義ラボは全学科での使用が前提である。故に、機器やら器具やらはその都度運び込んでいる。その結果が、この事態になっているのである。
「明子ぉ、配線これで良いんだっけぇ」
機器の配線をしていた楓。やっている内に分からなくなったようで、明子に確認する声も涙声になっていた。普段の実験で覚えておけばよいのだろうが、覚えが悪いようである。
「ちょっとまってぇ」
「どうした」
楓が声のする方を見やると、そこには枯下貴人が立っており、この展開に、ほんの数秒無言であった楓だが……。
「……この配線、これで良いですか?」
何とか、普段通りの声で質問する事が出来たようだが……。
――びっくりしたぁ。いるとは思わなかったよぉ。
「フン。ここは間違ってるぞ。この機器は前にも使っただろう。こうだ」
若干嫌みが混じっているようにも聞こえるが、その表情には、からかいなどが含まれているようには見えなかった。
「あ、そうでした。ありがとうございます」
教えて貰ったからには礼を述べる。楓にとっては極普通の応対である。元々、貴人に対して嫌悪感がある訳ではない。一方の貴人は、楓の礼に対して笑みが含まれているような表情で「次からは間違えるなよ」と返したのである。
「はい」
問題が解決したからなのであろう、楓の元を離れ、他に困っている生徒がいないか見て回っている。
「い、今の枯下、さん?」
振り返ると明子が固まっていた。
「そうだよ」
「嘘。信じられない」
明子がそう呟くのも致し方がない。以前は、楓を目の敵であるかのように接していたのだから。
一時間ほどが経ち、急ぎではあったが一通りは準備が終わったようである。
「さ。移動するわよ」
「基課生じゃあるまいし、号令しなくても……」
「よし! じゃぁ、行こう!」
「あらまぁ、張り切っちゃって」
この四人のやりとりを余所に、周りでも移動が始まっていた。“ぞろぞろ”と言ったところで、まるで民族大移動の如し、である。
実験棟に入ると「うひゃぁ~。これはすんごい」感嘆の声を漏らす楓である。
「本当にすごいわね。楓と明子はどこなのかしら?」
「え~と……」
「あら、もう忘れたの?」
「お、覚えてるよぉ。講義ラボ一〇三、だったよね」
「……正解」
「ぶ~」
微笑みながら楓の頭をなでる明子に、撫でられながら不機嫌を表現する楓であった。
「ぷっ。ガキ」
「あんですってぇ」
「あによぉ」
即座にいじり始める聖美に応戦する楓がおり、結局、睨み合いが始まる二人である。ま、いつものことと言えばそれまでであるが。これから、これまでにない調査を始めるのであるが、そうは見えないのがこの二人と言える。
「私達は、講義ラボ一〇一よ」
「あ、待ってよぉ。薫ぃ」
薫がスタスタと歩いていくのを追って、言い合いを切り上げる聖美であった。
「ふぅ。まったくもう!」
言い合いが終わっても、憤慨する楓、どこまでも思考がお子様である。
「ふふ。こっちも行くわよ」
「分かってるよぉ」
笑いながら歩き始める明子の後に続く、まだ怒りが治まらない楓である。
講義ラボ一〇三に移動した楓と明子は、割り当てられた場所で……。
「さぁて。始めますか」
威勢良く機器をいじり始める楓だが、「う~」と、唸り始めてしまう始末である。
「どうしたの?」
隣で作業している明子が覗き込む。
「う? いやぁ、地上からのスキャンだから、塵やら何やらよけいな物が一杯で、巨大建造物周辺の状況が分かりづらいよ」
「あら。それは困ったわねぇ」
返す明子の口調は、どうにも困っているようには聞こえない。
「窒素、二酸化炭素、酸素等々、極ありふれた分子しか検出できない」
「それは、地上からのスキャン結果ですものね。その辺りは除外しておかないとだめよね」
「そうなんだけどさ。それって、膨大だよ?」
楓がうんざりしているのが、表情からも分かる。
「仕方ないでしょ。地連が接近に失敗して、周囲のスキャンできなかったんだから」
「ぶ~。……仕方ない、一つずつ入力する」
項垂れながらも手を動かして、入力を始める楓であった。
3クリックすると展開/収納を切り替えます。
――うっ。こ、ここは……。あっ、また……と言うより、この夢も久し振りだね。
楓の目の前に広がるのは、前にも見た木立の中であり、“またか”と言う表情をしつつも、何故か感動している楓であった。
「と。うわぁ~。……いったぁ~い。あにすんのよ」
下草に絡まれ転ぶのだが、下草に文句を言う事を忘れない所は、楓と言ったところであろう。そして、藻掻いている間に、四方八方から下草やら何やらが這い寄ってくる。更に追い打ちをかけるように、動物が吼えているような声が近付いてくる。
――えっ。ま、不味い。何とか解かな……。くぅ~。忘れてたよぉ、下草引きはがすと痛みが来るんだった。
今更ながら思い出したようだが、吼えているような声の接近に急かされるように、慌てていたのである。
「い……た……。た……け……」
声のような音が聞こえた。
「えっ? ……何、何て言ったの? どこ?」
下草を解く手が止まり辺りを見回してしまうが、誰かがいる筈もなく、その隙を突かれたかのように……。
「お、おぉ~。痛い、痛い。背中が痛い……。引きずらないでぇ~」
下草が一斉に楓の足を引っ張ったため、上体も後ろに倒れてしまったのである。更に、そのまま引き摺られ、それなりの早さであった事も手伝って引かれるまま為す術がなかったようである。
「痛いってばぁ。すと~っぷ。とまってぇ~」
「い、た……。……けて……」
殆ど涙声になっている楓に、とぎれとぎれだが、声が聞こえてくる。
――やっぱり、誰かいるんだ。
「誰! どこ!」
引きずられながらも叫んでいるが、その目には引き摺られる痛みのためであろう涙が浮かんでいる。背中が相当にいたいようだ。
「あれ? 終点? よっこいしょ……。ふんとに、もう……。これがこうで。あっ、違う。こっちか」
動き出すのも突然なら、止まるのも突然。呆気にとられながら、独り言を呟きながら、この隙に下草を解きにかかるのであった。
「ふぅ。やっと解けた……」
安堵するが、茂みが揺れがさごそと音がする。
――うっ。やな予感……。
その予感は的中し、近くの茂みから動物が数頭ほど出てくる。
「あ、あのね。あたしは、楓ちゃんだよ。お家に帰ろうかな」
人間。パニックになると、とんでもないことを言うものである。
――な~に言ってんだろう。あたしってば……。
座ったまま後ずさるが、何かにぶつかる。
「へっ?」
振り向こうとした時、左の肩口を噛みつかれる。
「いった~い!」
絶叫するが、噛みついている動物には離す気はないようである。
一頭が噛みついたことが合図になったのか、周囲にいた動物たちが、一斉に楓に襲いかかる。右腕、左足、いや、それどころではない、楓を中心にして、動物たちの団子ができあがっていた。
動物に埋もれ、必死に藻掻こうとするが、既に、手足は噛みつかれ動かせず、「痛い。痛い。痛いよぉ~。薫ぃ!」と、情けないか、楓は泣き叫んでいたのである。いや、この状態であれば、もはや誰かに助けを求めるほかないのである。
「何で。どうしたのよぉ。何が言いたいのぉ~」
そう自分で叫んで、はたと思い出した言葉があった。“このままで良いんですか?”そう利樹に言われたことをである。だが、その時も、その後も、痛くなる事だけが嫌で仕方がなかった。それ以上の事は考えられなかったのである。
――……そっか。あたししか、聞けないんだね……。何。何が言いたいの? あたしで良ければ教えて。
噛みつかれている痛みはある。しかし、穏やかな気持ちが生まれ、藻掻くのを止め、動物たち、植物たちの訴えを聞こうとする。しかし……。
――……分かんない。まだ、分かんない。……そっか。そうだよね、こんな状態じゃ聞こえないよね。
何かに気がついたのであろう楓が、噛みついている動物に手首を返してなんとか触れる。すると、噛みついていた動物が徐々にその強さを弱め、仕舞いに噛みつくのを止めたのである。
「そうだ、よね。ごめんね。あっ、でも下草は、絡みつくんだ」
そう呟きながら、空いた手で触れていくと、次々と噛みつくのを止めていく動物たちであった。一方の下草は、絡みついたままであるが、今までのように締め上げると言うより蔓草が巻き付いているというのが適切であろう。
――……そっか。みんなは、代表なんだ……。
*
「おはよう。散歩してくる」
「慌ただしいわね。何を急いでいるの?」
「まったく。楓は、困った子ですね」
元気良く母親に出かける事を告げる楓だが、いつにない行動をしている訳で、母親にぼやかれながら心配され、あげく、iRoboにまで言われる始末である。ややむくれながら、朝の挨拶もそこそこに「良いの! 行ってきま~す」と、元気よく家を飛び出していったのである。
楓は、高層住宅に隣接する緑地公園の中で枯れが進んでいる場所、遊歩道からやや林の中に入った場所にある一本の幹に手を触れ、「ごめんね」と呟いたのである。
「うっ……。痛かったよね」
謝罪の言葉を掛ける。すると、幹から流れ込んでくる訳ではないが、久し振りの痛みに一瞬だけ呻いた楓である。だがその痛みを受け入れると、楓が触れた周囲の所々で早送りでも見るかのように枯れていた木々が萌えだしていった。
「あはっ。木が元気になっていくね」
嬉しそうな楓は、萌えが始まった林をゆっくりと、生い茂る葉を見ながらぶらつき、林の中をのんびりと歩いている、と……。
――お。誰かいる、誰だろう?
「おはよ……」
「あ。藤本さん。おはようございます」
「も、森里さん。お、おはようございます」
いきなりの来訪に戸惑ったのか、楓は深々とお辞儀をしてしまう。
――そうだ。あの時の答えをした方がいいかな?
楓が話しかける前に、利樹が先に話し出したのである。
「どうやら、答えを見つけたようですね」
「あ、あの。何故?」
「その辺りは秘密です。それより、答えが出せて良かったですね」
「森里さん。このことを知ってたんじゃないですか?」
「残念ですが、上から釘を刺されてまして、これ以上は……。あ、でも一つだけ。……藤本さんは、希望でもあるんですよ」
利樹は、指を上に向けながらそう言い切ると、踵を返し、楓に何も言わせないように立ち去っていったのである。一方の楓は、呆気にとられたようで、何も言えず利樹の後ろ姿を見送るだけだったのである。
――また。会えるかな。お礼はその時にしよ。
立ち尽くしていた楓は気を取り直し、なんとはなしに柔らかい表情で目的地を決めずに歩き始めたのである。
――何? ……これは。犬の吠えている声?
しばらく歩いていると、どこからか吠えているような声が聞こえてきて、そうする必要はないのだが、何故か楓は走り出していた。下草を踏みしめ全力で駆け、林を抜けたのである。
――犬は……。おぉ? あっちこっちに向いて吠えてる。何で? ……猫もいる、けど……。何やってるんだろう。木に飛びかかってるし……。あっ! 危ない!
楓はとっさに動けなかった。走り回っている猫同士が激突した。いや、それだけではなかった、木に体当たりしている猫もいた。
その光景は悪夢である。衝突を止めようとする猫は、一切いなかったからである。
「だめだよ。そんなことしても、痛みはなくならないよぉ」
楓はその光景に、独り言でも呟くように口を衝いて出ていたのである。しかし、全く気が付いていないようである。
――これが……。これが、あたしが拒絶した現実……。
泣いていた。ゆっくりと、歩を進めていく楓である。
「ごめんね。ちゃんと聞いてあげられなくて……。ごめんね」
小さい声で呟きながら両手を出し、近くにいた犬の傍らにしゃがんで、首を抱きしめる楓であった。
「あっ、くっ」
楓が痛みを受け入れているのであろう、小さくうめき声を上げると、吠え続けていた犬が徐々に吠えるのを止めていった。小さくうなり声を上げる犬の目は穏やかになり、その声に、抱きしめる力を強くする楓がいたのである。
思いが広がったのか、他の犬や猫も、楓の周囲に集まり始める。
最初に抱いた犬が、楓の抱擁を解くように動いて顔を楓の顔に近づけると「あ、こら。くすぐったいってばぁ」痛みを取ってくれたお礼なのか、楓の傷みを和らげようとしているのか顔を舐めていた。寄ってきた猫が楓の足に頭をすりつける。
――よかったぁ。みんな戻った。
~第九章 「甘受」 完
|