1クリックすると展開/収納を切り替えます。
「はぁ~」
──今日は、五月一三日……か……。あれから……。一週間たったんだね……。う~。でも……まさか森里さんが居合わせるとは……。参った参った。
失神するほどの痛みが楓を襲ってから、ちょうど一週間。公の場で、いつもの四人だけに止まらず、親しいとは言え利樹にまで迷惑を掛けたのである。子供っぽい楓とは言え、今年は二十歳になるのである。相応の考えは持ち合わせている、いや、奇病があるのだからそれ以上に気にしているのであろう。皆に見せている表情とは裏腹に、かなり心に痛手を被っているのがその表情からも伺える。
──……あうあう。まずい~。……これじゃぁ、いつもの楓ちゃんらしくないよ。この緑地公園の木々たちのように元気出さなきゃね。
生い茂る木々の枝を見上げる楓に、熱気を含んでいるとは言え、まだ心地よい緩やかな早朝の風が吹き抜ける。
──……あぁ、いい風……。あはっ。木々たちが話でもしてるみたいだね。
風に揺れてこすれ合うかすかな葉音が混じっている。それは、まるで未だ気落ちしがちな楓を、元気付かせようとでもしているかのようである。
目を閉じて、風を、木々の何かを受け取ってでもいるかのように両手を広げる楓、その表情は幾分か明るくなっていった。
──くっ……また。……ふぅ。今回は、まだ……まし……かな……。
ふらりと遊歩道を離れ、ほんの少し奥まった場所へと歩いて行く楓であるが、何だかんだと言ってもそれなりに痛みはあるようである。もたれ掛かった木の根元に頽れるように座り込んでしまった事がそれを物語っている。痛みに慣れているとは言え、まだましということは、これまでは一体どれほどの痛みが襲っていたのであろうか。
「ふぅ~」
──……全く。何でこうも痛くなるのかなぁ?
この独特の言い回しも痛み故なのであろう。ストレスとして感じないように、痛み自体も自分の一部なのだ、とでも思っているであろうか。あるいは、医者ですらさじを投げかけている痛みなのである。今更、どうにかなるものではないと考えているのかもしれない。どちらにしても、ある意味においては悲しいことである……。
「さて、と。痛みも治まったし。……ふん。あぁ~、散歩。続けよっか」
徐に立ち上がった楓は、足を踏み出して遊歩道へと戻っていく。その表情には、幾分か諦めが滲み出ているように見受けられる。いつ如何なる場所で襲ってくるか分からない痛みに、少々憂鬱になりがちな楓である。それでも、空元気と言われようとも元気を出すのが楓と言える。
──……あ~。林の中って気持ちいいなぁ。もっとゆっくり出来れば更に満足なんだけどなぁ。……そうは言ってもねぇ。流石に、今日は学校もあるし、下草が一杯生えてる林の中へは勘弁……かな? 女性としては、その辺りきちんとしないと……いけない……よねぇ。
遊歩道に戻った楓の足下からは時折、砂利が奏でる心地の良い音が聞こえてくる。のだが、その歩調が幾分か不規則になっており、楓の視線は林の中に向いている。
小砂利が敷き詰められた人工的な遊歩道は、定期的な整備がなされているのであろう、雑草一つはえていない。対照的に、その左右にある林の中は天然の絨毯のように下草が茂り、場所によっては蔓草が樹木に巻き付いている場所もある。人が入ってはいけない決まりはない。ないが……。如何な楓とて時と場合による判断は出来る筈で、所謂女性としての嗜みは心得ているようであるのだが、先程から視線が怪しくなってきているようである。
しばらく木々を愛でそよ風と戯れながら、歩調が怪しくなりながらも散策を続けていると……。
──くっ……。
「う……うっそぉ~。朝っぱら……から……二回目?」
楓はその場に立ち止まって顰めっ面になって耐えているようである。表情から察するに、先ほどより痛みが激しいと言う事なのであろう。
楓は何とか、近くの木へと向かっていくのだが痛みの為であろう、時折ぴくりと体を震わせているように見え、足下が覚束無くなりかけていた。
──そんなに……時間は、経って……ない……のに……。……そっか。そう……だね。……定期的……じゃ……ないん……だもん……ね。
辿り着いた木の根元に頽れ座り込んでしまう。その息遣いは、痛みのためか多少荒くなっていた。
二度目の痛みと共に、楓の耳に何かが飛び込んでくる。
──……。何の音? つっ! 音……じゃない、声? ……でも……、何でだろう。行かなきゃ……いけない……気がする。
痛みに耐えつつも、何故か気になるその声……。
「……あれ? あたし、何で歩いてるの?」
先ほどと同じように、痛みが去るのを待つつもりであったようだが、いつの間にか歩き出していた。それはまるで声と思しき音に導かれているかのようで、林の奥へと分け入っていく。その足取りは、痛みに耐えているせいなのか朧気で、友達を見つけたときにする挨拶代わりに叩くと言う行為だけでも倒れそうなほどであった。
──……この声は。犬? 吠えてる? ……う……そ。痛みが、増して……来た……。
しばらく、林の中をさまよう楓は、痛みにさいなまれる中ふと気が付いたようである。まだ、思考が出来る程度にはしっかりしているようである。
「だ、駄目! こ、これ以上……先に……進みたく……ない……」
先程から思いが口をついて出ている楓だが、その事に気が付いているのか……。しかし、口にした思いとは裏腹に、どうやら楓の歩みが止まる事はないようである。
「嘘……。な、何でよ! 行きたくないのに……。痛くなるから行きたくないのに……」
思いが募り、また、口をついて出る言葉……。語気が強くなっているのは、楓の苛立ちであるのかもしれない。それだけではなく、動揺が激しいと言うことなのであろうか。
何故なのか……。痛みを抱える中、思考は徐々に乱れていった。
──! 痛み……が、増し……て……。
襲う痛みに、これまでのように蹲るなどの行動を取ろうとしない楓。いや、それより動物の吠えている声の方に無意識に引かれているのであろう。
痛み、疑問、恐怖などが綯い交ぜとなって、思考と行動に混乱を招いているようである。それでも、歩いているのは紛う事なく楓自身なのである。
──……くぅ~。なんで……よ。足を……止め……たいのに……。……犬の……吠えてる……声が……大きく……。
「くっ!」
──いた……い……よぉ~。……行っちゃ……駄目。絶対……まずい……気が……する……。
動き続ける足を止めようと藻掻く楓は、次第に増していく痛みに、とうとう唸り声を上げ苦悶の表情を浮かべている。
今起こっている全てが混乱を呼び、その混乱とも葛藤している楓。心のどこかにある何かが、この乖離した現象を引き起こしているのであろうか……。しかし、痛みを抱えて半ばパニックに陥っている状態では、それを探そうとすることも、それ自体に気がつくことも出来ないでいた。
──……ほんとに……もう。駄目……なんだ……よ……楓……ちゃんの……足。……お願い……だから……言うこと……きいてよぉ……。
その思いはとは裏腹に、ひたすら声のする方角へと歩を進めていくのであった。
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「薫ぃ。こっちの方が涼しいよ」
「そんなに慌てなくても、場所は逃げないわよ。……待ちなさい」
──……もう。楓って子は……。ふふふ。今日の所はこれで良いわね。痛みを忘れられるというのなら、思いっきりはしゃぎなさい。
「……こんなに気持ちが良い土曜日も久し振りだものね」
楓のはしゃぎぶりに、薫にも久し振りの笑顔が零れていた。
楓の痛みは本人以上に、薫にとっても心配事になっているのも事実で、言葉で言う友人や親友と言う枠に収まらない程に、必要以上に気を遣い続けている。それは行動や言動にも表れており、明子や聖美をして“楓のお母さん”と言わしめるほどである。一方で、聖美が加わったときには、恰も二人の母親ぶりが垣間見えるのもまた事実である。
「ん~……。林の中って、涼しいねぇ」
「そうね。木々の茂る葉が日差しを遮ってくれるからかしらね」
「あ。それって、楓ちゃんに説明してるんじゃないでしょうね」
「あら。そう聞こえたかしら?」
「あ~。ひっど~い。そこまで楓ちゃんは子供かい」
「うふふふ」
「あっ。薫の意地悪ぅ」
たわいのない話は、あちらこちらへと移ろいで行った。学校の事、新商品の事、家族の事等など、話をしながら林の中を散策する二人がいた。
「……楓? どこに行くのかしら?」
「ほっ?」
「もう、疲れたのかしら?」
話に夢中になっていたとは言え、楓の足は高層住宅の建物に向いていた。
──……何で?
きょとんとしたまま立ち尽くす楓は、立ち尽くして首をかしげて何故自宅に向かおうとしたのかと、全く理解できない様子である。
「あれ? おっかしぃなぁ。ちなみに、楓ちゃんはまだ疲れてないよ」
「そうなの? では何故、あなたの足は家に向かおうとしているのかしら?」
「む。また薫の意地悪だ。ぷんぷん」
気を取り直し、向きを変えようとした時……。
──あっ、そうか……。こっちは……。
「楓? 行くわよ」
「……そう……だった。こっちは……」
「楓? どうしたの?」
行きかけた薫が、楓の元に戻って肩を掴んで揺するが、楓の心は何処かに行っているかのようで、薫の言葉に反応しない。
「……い……や」
「えっ?」
「いやなの!」
「あっ! 楓!」
薫の手を振り解いて楓が走り出していた。
「待ちなさい!」
薫の制止をも振り切り、二人で向かおうとしていた方向とは反対へと……。その場から離れたい一心で走り去っていった。
*
「はぁはぁ」
──怖い、怖いよぉ。ここは、好きな場所だったのに……。
何かを思い出した楓。いや、単にその事を忘れようとしていただけなのかもしれない。今日の陽気さはその反動で、本人でさえ気付かぬうちにいつも以上にはしゃいでいたのであろう。
「……あっ。薫は? ……置いてきちゃった……。あはは……は……」
はたと気が付いて辺りを見回すも薫の姿は何処にもなく、顛末を笑い飛ばそうとするのだが、表情は暗くなっていく一方であった。
どれくらい走って来たのだろうか。辺りには人影はなく誰もいない林の中である。
──……いや。……これも……いや。
一人ぼっちの恐怖が楓に忍び寄る。認識してしまった楓は途端に身震いする。いつの間にか両手で肩を抱きしめ座り込んでいた。いろいろな思いが、記憶が去来し、思考が定まらなくなっていく。
──あれと、一緒……。
「うぅ。すん。すん。……あっ」
「……で。……えで」
微かに聞こえる誰かを呼ぶ声。誰かが誰かを探している声が聞こえてきた。
「か……。楓」
「……あっ。か……おり?」
次第に鮮明になる声は間違いなく楓を探している声、薫の声であった。
「か……楓……」
「うん」
「一体……。いいわ」
「うん」
楓の表情を見て察したのであろう、薫はそっと楓の肩を抱きしめる。その暖かさに身も心も安らぐ楓がそこにいた。
「落ち着いたかしら?」
「……うん。……あのね」
「何かしら?」
「あ、ありがとう。薫」
「いいのよ」
木を背にして寄り添うように携帯座布団を広げ、下草の上に座り込んでいる薫と楓が微妙な笑みを浮かべつつ二言三言会話をする。
楓が、思い出したくない出来事があった場所から逃げ出してから一〇分程が経っていた。高層住宅の建物からは大分離れた緑地公園内の林で一番深い場所にいた。
「そいでね。ごめん」
「良いって言っているでしょうに。もう、楓は」
「あは、あはは」
「うふ。それで。何があったのか言ってご覧なさい」
「うっ」
言葉に詰まり目が泳ぎだしてしまう楓に、薫はまるで母親が問いただすときのように、穏やかな表情で見詰めている。楓は、それを知っているからなのであろうか、目を合わせようとはしない。明らかに、何か思い当たるところがあると薫は直感したようである。
「何でも良いから、私に話してご覧なさい。少しは、すっきりするんじゃないかしら?」
「……うん、分かった……。あのね。三日前……」
楓は三日前に起こった出来事を、事細かに話し始める。
痛みが何度か襲ったこと。その痛みが続く中、ふらふらと足がある場所に向かっていたこと。更に、近付くに連れて犬が吠えていることが分かったが、それに伴って痛みが増していったこと。
そして……。
「……は……林……の……切れ……目? はぁ。はぁ」
「……めだよ。何で、吠えてるの。……ひぃ」
ザッ、と音をさせ林から出て来た楓に、ちょうど楓の正面にいた男の子は、一瞬ぎょっとしたようである。
「はぁ~。びっくりしたぁ」
女性ではあったのだが自分より年上の人が現れたことで、安堵したことが表情から伺える。
「お……お姉さん。助けて、僕の犬が……」
「……この……犬……だった……ん……だ……」
遊歩道に出たところで痛みに耐えきれなくなったのか、いやそれだけではあるまい、ここまで耐えてきた気力が尽きたのであろう。楓は崩れるようにその場に倒れ込んでしまった。
どれくらい意識を失っていたのであろうか。頬に触れている何かの感触からか楓は目を覚ます。
「……ん? ここは……」
「お姉さん……。大丈夫?」
「あっ、ぼく……」
「……よか……ったぁ」
「ぼく……。あん。ちょ、ちょっとぉ」
楓が目を覚ました事に嬉しくなったのか、男の子の犬がいっそう激しく楓の頬をなめ回し始めた。
「……止めてよぉ。分かったってばぁ。止めて!」
楓のそのきつい一言で、ぴたりと舐めるのを止める犬。辺りには、男の子以外はおらず、その男の子の目が赤くなっていた。ペットの暴走と現れた楓がいきなり倒れたりと、二つの出来事が一度に起こった事で動揺し、何をどうして良いのか分からずべそをかいたのであろう。
「……ごめんね。驚かせちゃったね」
「ううん。お姉さんが気が付いてよかった」
「ありがとう。そう言えばこの犬、吠えてないね」
「うん。お姉さんが倒れてからすぐ、かな、吠えるの止めたよ」
「そうなんだ……。おっと時間……。げっ!」
男の子の話をぼんやりとしながら受け流してしまう楓である。あれほど気にしていたのにである。直後には、薫が傍にいたのなら小言を言われかねない言葉を発し、別れの言葉もそこそこに、楓は走ってその場を後にした。
「そう……」
顛末を語り終えた楓に、何とも言い難い感情を抱いた薫が相づちを打った。
「うん。……でも、いや」
「どうしたのかしら?」
「うん。もういやなの。痛みに、耐えるのが……」
「楓……」
楓の胸の内を知る事となった訳だが、己の無力さも知っている薫は、そっと抱きしめることしかできなかった。
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「おぉ?」
呟きを漏らす人物がいた……。「あっ」と更に声を漏らして口を手で押せた事から、どうやら思わず出たと言いたげである。
──うぅ~。またここかい。はぁ……。このところなかったのにぃ~。楓ちゃんに恨みでもあるのかなぁ?
久し振りとは言え、再三悩まされたのだ、少々立腹したとしても仕方が無いであろう。
「で。また木立ってねぇ。……芸があるんだか無いんだか。……誰かいるんでしょ、出てきてよぉ」
そう言いつつも心細くなっているのが表情から伺えるだけでなく、徐々にではあるが怯えの色も滲み始めている。
──これは、夢。夢なんだから……大丈夫。
「!」
次の瞬間。脱兎の如くにその場を走り去っていた楓である。
楓の中には、どうやら恐怖と呼べる物が確実に芽生え始めたようである。いや、すでに恐怖に取り込まれているようである。その証拠に、楓の足がいつもより敏感に反応し、瞬く間に全速力を出しているであろう事が表情から伺えたからである。
──逃げたくなかったのにぃ。逃げないって決めてたのにぃ。とほほ……。……うぅ~でもぉ。気配がなんか強くなってる気がする。……やっぱ怖いよぉ~。
頬を伝う滴……。楓は、恐怖からか己の不甲斐なさにか走りながら泣いていた。
気配は、楓の後ろにも、右にも、左にも感じられた。その気配が微妙に位置を変えるたび、楓の逃走路も変わっていった。それはまるで、どこかに導こうとでもするかのようである……。
──え~ん。薫ぃ。助けてよぉ。はぁはぁ。……えっ? 気配が、大きく感じる。あ、あによぉ。大きくなること……!
楓は感じたのである。今までは、言ってしまえば遠巻きにして見ていただけであると。あるいは監視していたのかもしれないと言う事を……。
強く濃くなっていく気配に翻弄される続ける中……。
──えっ? 分裂した? とっとっと。何?
「はぁはぁ……」
──……何が……起こって……。!
息を切らせながらも足を止めた楓は、呼吸を整えつつも周囲を警戒する。しかし、落ち着いても見えるその表情には、やはり怯えが滲み出ていた。
「ちょっとぉ、いい加減にしてよ。夢ん中だからってねぇ、いつまでも楓ちゃんを虐めないでよね」
言葉を口にすることで、強い意志を保とうとでもしているのだろう。それは、夢だから恐怖に屈しても大丈夫と言う思いと、夢であっても負けたくないと言う思い。そう言う類の葛藤が楓の中にあるのが伝わってくる。
──……何で答えないのよぉ。……お願いだから、なんか答えてよぉ。
一転して表情が曇り始める楓である。
どう呼び掛けようとも、いっこうに答えが返ってこない相手である。言葉で相手をするつもりがないのか、弄んでいるだけなのか。
──だめ……。やだ……。
「あっ……」
バランスを崩したのか、前のめりにしかも勢いよく倒れ込んだ楓は、顔の防御もままならず強かに顔面を打ち付けたようである。
──……いったぁ~い。
「あたたたた。もう。楓ちゃんの小さな鼻が痛いじゃない。これ以上小さくなったらどうするのよ。よっこいせ……。あっ……。またぁ。……このぉ~。いつの間に絡みついてたのよぉ。ふんとにも~」
ぶつくさと文句を言いつつも、絡み付いた蔓草を無造作に解こうとすると……。
「はぅ! ……つぅ。忘れてた。蔓草解くと痛みが来るんだっけか」
──! 何?
「誰! ……? 誰も居るわけ無かったんだっけか。けど、気配が近くなってる……気が……」
背中を駆け上がる怖気に身震いする楓は……。
「! やだぁ、ぞくっと来たぁ。……うっ? ひぃ! そこいら中から気配が……近付いてくるよぉ。うぇ~ん」
四方八方から迫る気配に蔓草を解く手が止まり、初めての出来事に戸惑いを隠せなくなった楓は、暢気な悲鳴を上げるのであった。それでも、押し寄せる気配に対して周囲を見回し続ける事は忘れていないようである。
そして……。
「きゃぁ~。何? 何? 背中に感触が……。あっ、足にも……」
何かの感触を感じているのだが、右足には依然として蔓草が絡みついたままで、身動きが取れない楓は身を捩る事しか出来なかったのである。
──……触れられている筈なのに、何で、姿が見えないの?
楓の目には何も写っていない、そうであるにも関わらず未だに気配は感じられたのである。手とも足とも判然としないが、確かに触れられているのを感じ取っていた。更には、気配そのものは以前より確実に濃さを増していた。
「イタッ! ウ……ソ。引っ掻かれた? 痛い、痛い! あっちこっち引っ掻かないでぇ~」
その痛みは、引っ掻かれた程度のものであるようだが、それが無数に行われたのでは堪ったものではない。
「痛い、痛いよぉ~。誰かぁ、助けてぇ~」
「ん? 部屋?」
朦朧とする中で周囲を見渡した楓は、ベッドの上で上体を起こしている自分に気が付いた。
「……うん、間違いない。楓ちゃんの部屋だ。良かったぁ。……あっ! 傷!」
タオルケットを剥ぎ取って、腕を、足を確認する楓は……。
「……よしよし。 傷がない! やっぱ、夢……か」
*
「ふんとに、むぉう。はぐ。はぐ」
「楓。食べながら愚痴るのやめなさいよ」
「らってぇ~」
その光景を見ていた薫が、くすりと笑う。
「あっ。薫ぃ。ひま、わらっふぁでひょう」
「そうね。きれいな夕焼けを見ていたら、あなたとのコントラストがおかしかったからかしら?」
「あぁ、なんてこと言うかなぁ、薫はぁ」
「そうねぇ。言われてみれば、夕焼けをバックにやけ食いする女ってのはどうかと思うわ」
「や~い。怒られた」
「む。聖美だって一緒じゃん」
「あんですって。どこが一緒よ」
ここは、鵜野森CB“憩いのひととき通り”にある和菓子屋のウッドデッキである。そこは恰もタイムスリップでもしたかのように、木製のベンチに朱色の布が張ってあり、ベンチに合わせた高さのテーブル代わりのベンチも同様である。極めつけは、朱色の番傘が広げられており日差しを和らげてくれている。
空は抜けるように青く、そこには綿菓子のように浮かぶ雲があった。今はそのどれもが一様に茜色に染まっており幻想的と言っても良いのかもしれない。そんな情景の中でのやけ食いとはなんとももったいない話である。
楓達は、四時限目が休講となったこともあり、学校を終えた後に楓のやけ食いに付き合うため一六:〇〇過ぎからここにいるのである。
「あたしは楓とは違うの」
「どこが違うのよぉ」
「ふん。分かり切ったことよ。変な夢なんか見なし」
「あ、ひっどぉ~。見たくて見てるんじゃないんだからね」
「ホントかなぁ」
「むぅ~」
返す言葉がなかったのであろう楓は、目の前のお皿を睨み付け、お皿に残っている和菓子を一気に、それも豪快に食べる。
「あ~。全く、すごい食べ方ね。二人共いいかげ……ん……。……何?」
明子が止めようとすると、四つの燃える瞳に見据えられた。
「……分かったから、思う存分続けて良いわよ。ね、薫。……ん? 薫」
「何かしら?」
「いつもなら真っ先に止めるのに、今日はどうしたのよ?」
「別に、これと言って何もないのだけれど。どうかしたかしら?」
「ふ~ん。薫が、楓を叱らない……か。……ふふふふ」
「明子。その笑い方は止めて」
そんなやり取りをしている中でも、楓と聖美の言い合いは続いていた。
「夢ん中でまで痛い思いするなんて。どっか壊れてるよ、楓は」
「む。酷い! それはあまりにも酷いよ、聖美!」
楓は、テーブルがひっくり返るのではないかと言うほどに両手を叩き付けた。周囲の視線が楓達に注がれているのだが、当の楓はかなりのご立腹の様子である。
痛みに関して悶々としている上に、いつもの口喧嘩のつもりがいつも以上に言われてしまっては、楓とは言え、虫の居所が悪くなろうというものである。
「か……楓。大丈夫よ。聖美だって、本心で言ってるんじゃないんだから。ね、聖美……」
「ふん。どうかなぁ?」
徐に立ち上がった楓は聖美を睨み付ける。
「か、楓? ……薫、何とかしてよ」
「……」
立ち尽くしたままの楓に対して、聖美はその楓を見ようとはせずに黙々と和菓子を頬張っている。薫は楓を見ているように見えるのだが、その楓に小言を一つも言っていない。何故、いつもと違う行動を取るのであろうか。楓のまるで子供染みた癇癪に、何かを感じているからなのだろうか。そして、その狭間にいる明子は、端から見てもかなり心配しているのが分かる程である。
「うぅ……」
小さく嗚咽を漏らして、楓が唐突に走り出してしまった。
「楓!」
楓が走り去った後、食べていた手を止める聖美。どこに焦点が合っているのか、呆然としているようにも見受けられる薫。楓の去った方角を唯々見つめている明子。周囲では、この騒動に時が止まってしまったかのように、しんと静まり返っていた。そんな半ば静寂の中で口を開いたのは……。
「……薫。このままで良いの? 聖美も……」
何も、語らない二人。いや、聖美については、言い出せないだけなのかもしれない。いつもよりきつい口調で楓を攻めてしまったのだ、心中穏やかではない筈である。一方の小言を一切言わなかった薫は、まだ何も語らない。そして、本当の姉妹を労ろうとでもするかのような明子が、二人からの言葉を待っていた。
「……そうね。この状況はまずいわね」
「……薫。まだそんなことを……」
「……明子ぉ。あのさぁ。あたしはね、いっつも楓と軽い口喧嘩ばっかしてるけど、今日の楓は……小さな……動物だよ……」
「えっ?」
「でもさ、ちょっときつすぎたかもって、今は思ってる」
「……そうね。きっと、今頃、どこかでわんわん泣いてるかもしれないわね」
「……あのね、二人共。だから、私が……」
「分かっているわよ……。さ。楓を探しに行きましょ」
ピンと張った空気が和むように、止まった流れが動き出したかのようにざわめきが戻ってくる。
薫、明子、聖美は、忘れていった楓の鞄を持って和菓子屋を後にした。
その痴話騒動に一区切りがついた頃、CB内の全店舗の壁面に一斉にニュースが流された。
「……臨時ニュースをお伝えします。つい先ほど、一八:〇〇頃になりますが、専課学校芸術学部の学生に、登下校時の注意勧告が出されました。
繰り返し、お伝えします。本日、二一二八年五月一九日……」
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「わぁ~い。これ欲しかったんだよねぇ」
一際大きな荷物を抱えるようにして、店から出てきたのは楓である。
ここは、鵜野森CBの“童の心通り”にあるファンシーショップで、版権キャラクターやオリジナルキャラクターなどを使ったグッズを販売している。
先日の痴話騒動から三日。いつも通りの仲良し四人組に戻っていた。
「あんたねぇ。お子様じゃないんだから、そんな大きなの買ってどうすんの」
「いいじゃん。前から欲しかったんだし、子供だって良いもん」
「……」
「あに見てんのよぉ。お子様じゃない聖美は興味ないでしょ」
「……。う~。……もう一回見せてよ」
「や」
既に、二人の中には蟠りはないようである。いや、始めから無かったのかもしれない。聖美とて楓が嫌いな訳ではないのは周知の事実である。本人達がどう思っていようとも、所謂、良い意味でのライバル的な存在でもある訳なのだから。
「で、次は誰の買い物?」
「ブティックだから近いし、あたし」
「何でよぉ。中央に戻れば、どこも近いよ?」
「良いの!」
「ちょっと待ちなさいよぉ。薫や明子だって買い物あるんだよ」
「良いわよ。先に、聖美の買い物を済ませましょう」
「えぇ~。なんか納得いかない」
「ふ~ん。最初に、駄々を捏ねたのは誰だったかなぁ?」
「う~」
「良し。決まり!」
わいわい、ぎゃぁぎゃぁ、と相変わらず二十歳になろうかと言う女性とは思えない会話をしながら、聖美の買い物先へと向かうのであった。
「それじゃ、いくっぞ~! と、ブティックは右……だったかな?」
「そうね。ここからだと右ね」
鵜野森CBの中心地であるグランド・バスのターミナルから、適度な間隔で同心円に通りが配置されている内の一つに、聖美を先頭に入って行く四人である。
「で、聖美は何買うの?」
「何ってねぇ、ボトムを買う」
「ふ~ん」
「楓あんた“ふ~ん”てねぇ。少しはおしゃれ考えなよ」
「ほ? いっつも考えてるよ」
「それのどこが」
「む。聖美こそ、ほいほい買いすぎだよ。もっと服を大切にしないと」
「あ~。この貧乏性が」
「あ、あんですってぇ」
「楓に聖美」
その声に、びくりとする二人が振り返ると、穏やかな表情をしている薫が目に入った。
「じゃれるのは良いのだけれど、通り過ぎてるわよ」
「あっ」
“童の心通り”の一本隣にある、“装い通り”を通り過ぎかけてしまう聖美と楓は、一瞬居心地が悪そうにしたものの慌てふためきながら“装い通り”へと入って行った。しかしそれで終わらないのが二人である。
「楓が認めないから、道間違えたじゃない」
「楓ちゃんの何処が悪いって言うの。聖美の言いがかりだよ」
「あんですってぇ」
「あによぉ」
今度は通り過ぎかけたのがどっちの所為だと騒ぎながら歩いて行ったのである。
さて、お目当てのブティックでは……。
「ねぇねぇ、こっちの方が似合うと思うけどなぁ」
「そうかしら、聖美にはこっちの方が合うと思うのだけれど」
「い~え。断然こっちね」
「じゃぁ聖美、これ履いてみて」
「ちょっとぉ。自分で選ぶってばぁ」
「いいじゃん、ちょっとだけ」
「……しょうがないなぁ」
等などと聖美を除く三人で、あれが良いのこれが良いのととっかえひっかえが始まり、さながらファッションショーが行われた事も付け加えておこう。
「うふふふ」
「聖美が浮かれてるぅ」
「いいじゃん。さっきは楓もそうだったんだし」
店を出た聖美は大分ご満悦のようである。三人の助力もあったのであろう、当初のお目当て以上の物を買うことが出来たようである。
「何で楓ちゃんが出てくるのよ」
「それこそいいじゃん。……うふふ。やっぱこれだよねぇ」
「む~」
「さ、次は私か明子ね」
「あ、私は最後で良いから、薫の買い物しましょ」
「そう?」
「えぇ、どうぞ」
「お言葉に甘えて。次は、アクセサリーショップへ行くわよ」
しばしの移動となるのだが、その間も楓と聖美は……。
「アクセサリーかぁ。薫が買うんだから、こんなのとか、あんなのとか、すんごいのがあるお店に違いない」
「無いわよ」
「また即答で。う~ん」
「楓」
「あに?」
「あんたのその気持ち、分かるよ」
「あにが?」
「何か物足りないんだよね」
「うん」
「二人共、私に何を期待しているのかしら?」
「……え~、あ~。聖美!」
「あんで、あたしに振る!」
「直ぐ済むから適当に物色してなさい。但し! 騒いだら、只では済ませませんよ」
薫のいつも以上の迫力に、楓と聖美は、首がおかしくなるではと言うほどに頷いていたのである。二人が頷いたのを確認した薫は、踵を返しアクセサリーショップへと入っていった。
程なくして、楓と聖美を従えた薫が店を出てくる。
「全く、あれほど騒いでは駄目と言っておいたのに」
「まぁまぁ薫。楓と聖美に、そんなこと言っても無理なのは分かってるじゃない」
明子のその一言に、目を輝かせながら同意する二人がおり、その様子を見た薫が溜息交じりに落胆するのであった。
「……性のない子達ね」
「さて、落ち着いたことだし。最後は私ね」
「明子。何買うの?」
「ちょっと遠いけど、行くわよぉ」
「だから、何買うか教えてよぉ」
明子に食い下がる楓と聖美だが、「お楽しみ」とだけ言い、すたすたと目的地へと歩いていく明子であった。
中央を素通りして、更に“憩いのひととき通り”の一本隣の“職人通り”へと足を踏み入れた。歩くこと一五分が経っていた。
「え~と。ここは何屋さん?」
「見たとおりじゃん。調理器具ってやつだよ、か・え・で」
明子の買い物の目的地に到着したところで、看板があるにも関わらず楓がとぼけた質問をすると、待ってましたばかりに嫌みと挑発をする聖美であった。
「む~。それくらい、楓ちゃんだって知ってるよ!」
「ほぉ~。じゃぁ何で“何屋さん”何て言ったのさ」
「う~」
「二人共、いい加減にしなさい」
背後からの言葉にぶるっと震えて振り返る二人は、怒っているようには見えない表情をしている薫を見る事になったのだが、それがかえって二人をすくみ上がらせ黙らせる事となった。
「それじゃぁ、表でちょっと待っててね。買う物決まってるから直ぐ済むわよ」
「え~」
不満であると言いたげな表情をしながら見事にハモった楓と聖美なのだが、背後から放たれた薫の視線によって硬直するのであった。
「あ~。なんか疲れた」
「それをずっと持ち歩いているからよ」
「うっ」
「だっこしっぱなしだもんね。お子ちゃまママ」
「うるいなぁ。いいじゃん」
じゃれ合う楓と聖美を含む四人は、“憩いのひととき通り”にやってきていた。買い物を終えての休憩である。
「……それはそうと、明子ぉ」
「なぁに?」
「何買ったの? お店に入ってないから見てないし」
「そうねぇ。でも、ここでお店広げる訳に行かないから作る物を教えるわね。お菓子でも作ろうかと思ってね」
その言葉に三人の表情が固まった。楓や聖美はおろか薫までが、その言葉に度肝を抜かれたようである。
「やぁねぇ。違うわよ。作ってみたかったし、みんなで食べたいからよ」
「本当かな?」
「う~ん。もう少し検証が必要じゃない?」
「……明子、あなた……」
「だから違うって言ってるじゃない。それから、そこでぼそぼそ話してる楓に聖美。あなた達といていつそんな時間があるの?」
言い訳をしていた筈の明子の表情が一転、楓と聖美への反撃は笑みを湛えたものへと変わり、最後の一言に……。
「……うっ」
ノックアウトされて撃沈する楓と聖美であった。
確かに、いついかなる時も目が離せず、二十歳にもなろうかという年齢でありながら、薫と明子に迷惑を掛けっぱなしの二人に言い返す言葉はなかった。
「そうだったのね、明子」
「だから違うって言ってるでしょ。……もう、薫ったら全然耳に入ってないし」
「?」
──右足? 何だろ。
不意に右足に違和感を覚えた楓である。
「楓、どうした?」
「ん? 何でもないよぉ」
──まさか。また?
薫が珍しく取り乱す一方で、楓が感じた違和感はいつもの痛みなのであろうか。荷物を抱えていたための疲れなのか。
──くっ。また来た! ペットが近くに?
痛みを堪えつつも耳を澄ませて辺りを確認する楓だが……。
──近くには、いないみたい……だけど。これは……不味い……かも。
本格的に痛みを感じ始めた楓は、必死に耐えているようである。
「楓、どった?」
「あに?」
「きょろきょろして、なんかあった?」
「う、ううん……」
痛みをごまかしたいのであろうか、聖美の言葉を濁そうとする楓だが……。
──痛みが、増して……来た。
「くぅ」
ついに声を漏らしてしまう楓に聖美が素早く反応する。
「薫! 楓が……」
「また始まったのね……。とりあえずは、このままここにいましょう」
「で、でも……どうしよう」
「聖美。大丈夫よ。しばらくすれば治まるでしょう」
「うん」
「楓。テーブルに伏せていてもいいわよ。人の目を気にしないで済むでしょ」
「う……ん」
──くぅ。痛い。痛いよぉ。
「うぅ……」
聖美の顔がくしゃくしゃになりかけていた。唯一と言っても良い喧嘩友達であり、親友の楓の身にただ事ではない痛みが襲いかかっているのである。いつもは、いろんなことで言い合いしてはいるものの、こう言う時に何も出来ない自分が歯がゆく、もどかしく感じているのであろう。
──いた……い。また、痛みが……増し……。
聖美や薫の気持ちとは別に、楓は必死に痛みと闘っていた。ここは、自分の家でもなければ学校でもないのである。
痛みに耐える楓の脳裏に、不意に思い浮かんだこと……。
──……ま……さか。夢の……痛みって、これ……の……事?
その根拠は全くと言って良い程ない。いや、それどころか、結びつける事自体が正しいのかそれすら怪しいとは言え、楓は予知夢ではないかと考えたようである。
──……い……た……い。今日は、いつ……まで……。
「楓ぇ」
「ほんとにもう。情けない声出して、いつもの強気は何処に行っちゃったのよ」
「だってぇ」
「大丈夫よ。今までもずっと耐えてきたのだから、きっと大丈夫よ」
──こう告げるしかないわね。明子もそうだけれど、聖美にだけは絶対言えないものね。あの件については……。
いつもの薫とは思えない珍しく希望的な言葉である。それは、先日の楓の言葉もあってなのだろう。そう告げる事しか出来ないのである。それでも、ずっと耐えてきたのは紛れもない事実である。だからこそ、これからだって耐えていける筈……。耐え続けて欲しい……。そう願わずにはいられないのである。
「……聖美」
「?」
「しっかり楓を見ていてあげなさい」
「……うん」
「それはそうと明子。先ほどの話、説明してもらえるかしら?」
「え? さっきの話って、まさか……」
「そうよ。何故、お菓子を作りたくなったのかよ」
「だから、それはさっき言ったじゃない」
──……薫の、声だ。……あぁ。まだ、気にして……たんだ。薫……ってば……。はぅ~。また、痛みが……増して……。もう。もう。こんなの、いや。……原因……も、分かんない……ような……痛みは……。いやぁ~!
痛みに対する忍耐の限界点に達した楓……。心の叫びはどこに届くのか……。
~第四章 「拒絶」 完
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