1クリックすると展開/収納を切り替えます。
「はぁ~」
「まただ。む~」
「聖美、そう言わないの」
「明子ぉ、だってぇ~」
楓の溜息に、不満がはち切れんばかりの表情で口を開いたのは聖美である。フォローをした明子も“しょうがないでしょ”といった含みがあるような表情である。だが、聖美が納得していないのがふてくされた表情から伺える。
理由はある。一昨日からこっち、楓と口喧嘩をしていないからである。しかし、それだけで不満になるとは困ったものである。まぁ、別の見方をするならば、喧嘩をするほど仲が良いと言ったところであろうか。
「え? あ、ごめん」
「う~」
素直に謝っている楓に対して、唸りを上げる聖美の表情からは、苛立ちが垣間見えている。
そろそろ聖美の限界点が近そうである。
「だぁ~!」
「ちょっと聖美。大声を出さないでよ、恥ずかしいじゃない」
楓の謝り方が悪かったのではない。聖美が期待した反応が返ってこなかったことと、ここ数日来の不満がとうとう爆発したと言ったところであろう。それでも、まだ不満が収まっていないのが聖美の表情から伺えるほどである。
一方で、明子が告げた通り聖美の大声に、周囲にざわめきが起こったのは事実であった。その証拠に、周囲の生徒は言うに及ばず、離れた隅の方の生徒達までもが視線を向けて何事かと訝しんでいるのが確認できた。
今は、二時限目前の休み時間で、ここは学生会館の一階にある談話室である。休憩などで学生や職員、果ては教授までに利用される場所であり憩いの場所である。
「でもでも」
「そうね。楓がこの調子だと、聖美も辛いわよね」
「そうそう。……あ、いや、だから、えっと……」
相づちは打ったもののはたと気付いたのであろう、目が泳いでいるだけでなく、頭もあちらこちらを向き、しどろもどろになった上、尻切れトンボになる聖美であった。
無言になること、それはすなわち薫の言い分を肯定することになるのだが、その事を分かっているのかどうかは定かではない。結局の所、対処をどうすべきか悩んでいる内にオーバーヒートした、と言うのが真相であろう。聖美らしいと言えばそうなのだが、とは言え、薫には心の内を見透かされているという事になる訳で、だからこそ、きちんと最後まで言えないのである。
しどろもどろになった聖美は咳払いを一つして……。
「……楓。絶対おかしいよ」
「へ? あにが?」
困った表情をした聖美が、楓の状態を知ろうと強硬手段に出たようであるが、いつもの楓らしくなく完全に上の空で、返事があさっての方向と言う結果に陥っており、途方に暮れるしかない聖美であった。一方、薫と明子も聖美と同様に心配しているのが傍目にも明らかであるが、もうしばらくは静観をするつもりのようである。
「楓。何かあるの?」
「ん? ……あ、え~……いやぁ。何でもないよ。楓ちゃんは至って元気だよ」
聖美は、一呼吸して思い切って楓に問い掛ける。その楓はと言えば、心ここにあらずといった様子であった。声を掛けられた事でいきなり現実に引き戻されたようで、目が泳いでいるだけでなく、張りのない声で応えている。
「嘘ばっかし」
「む~」
聖美のややふてくされた言葉遣いに、楓は、口を真一文字に結んで唸り声を上げたのであった。
数日かけてやっと反応を示した楓に、聖美がそれを見逃す筈もなく、正面に座る聖美の顔がほころんだの言うまでもないことである。
「あっ」
聖美の笑みがいつものものと違っていることに気が付いた楓は、何故か無性に嬉しく思えたのであろう、うっすらと涙を浮かべていた。
「何泣いてんの~」
「泣いてないもん!」
「泣いてるよ~だ」
否定しつつ涙を浮かべながら応える楓はいつものそれとは違っているようである。そして、執拗に責め続ける聖美も何処か嬉しそうである。
睨み合って、言い合っているように見える二人だが、何かを交わしているのであろう。
「痛っ! ……くぅ」
うれし涙で言い合っていたのもつかの間、楓が一転苦痛の表情となって、右の脹ら脛を押さえながら呻き声を上げたのである。
「楓!」
叫んだのは笑みを漏らしていたはずの聖美である。そしてその表情から笑みは消えていた。
*
「……次に。行方不明となっている学生の事件についてです。今週の初めに行方不明となっている学生の消息は、今現在も分かっておりません。一部には、先週までと同様に今週末には帰宅するのではないかと言う見方もあります。
以上、ここまでは、西暦二一二八年四月一二日、一二:〇〇までに入りました、最新ニュースをお伝えしました。ここからは、本日のニュース・ダイジェストを……」
「……やはり、帰って来ていなかったのね」
「……そう……だね」
ニュースを聞いていた薫が、悲しそうにぽつりと漏らした言葉。それに相づちを打っている楓の口調には素っ気なさが感じられる。二時限目前に襲った痛みがまだ尾を引いているからで、まだ治まりきらないようである。
痛みもさることながら、行方不明事件が気になっているのは、被害学生の殆どが芸術科で占められているとは言え、希に化学科や物理科の学生も含まれているからである。
何故? 何処に? と言った素朴な疑問は優に及ばず、テレビではコメンテーターや専門家が果てのない論議をしている。それと、行方不明の期間がほぼ誤差なく“一週間”であると言うのも気になるところであり、今のところ、行方不明となって帰宅していない学生は皆無である。日本では新たな神隠しでは、と唱える専門家まで出てくる始末である。二二世紀になったとは言っても人類の理解を超えてしまえば、そう解釈せねばならないのかも知れない。
「楓、痛みは?」
「うん。まだちょっと……」
心配そうな顔で楓を気遣う薫と痛みに辟易している顔の楓が、乗客の殆どいないグランド・バス車内で流しているニュースに耳を傾けていたところである。
時刻はお昼を大分回ったところである。
今回の痛みは、長引いたことで痛みに耐えかねて講義を受けるどころではなくなってしまい、医療室のお世話になる事となったのだが、今回の痛みにはいつもと違うところがあった。言ってしまえば、“ここだよ”と伝えようとでもするかのようであり、寄せては返す波のように痛みに起伏があったが、今は、大分治まってきているようである。
「今日のは、いやだなぁ」
「そうね」
「あ~。何かもう、苛つく」
「ごめんなさいね。痛みだけは代わってあげられないから……」
「うっ……。そ、そう言う訳じゃ……。ごめん……」
痛みが長引いたことで、頭をかきむしりそうなほどに苛立ちを覚えている楓に、優しく、全てを受け止めてくれるかのような薫に、落ち着こうとする楓であった。
楓は常に思っていることがあった。この痛みさえなかったらと……。いつ、いかなる場所で、痛みが発症するか分からない、そんな恐怖を常に抱えているのだ。それを分かっているからこそ、薫は殆ど一緒にいてくれるのだろうと。
ピンポン。
「間もなく、鵜野森CBに到着します」
このアナウンスと前後して景色が一変した。どうやらグランド・バスが地下に潜ったようである。
この鵜野森のようなCBでは、ジャンクションも兼ねているため(一部のBBにもある)、規模が大きくなることも手伝って停車場と関連施設や設備を大深度の地下に設置しているのである。
「楓」
「あに?」
「お昼はどうするの?」
「おっと、忘れてた」
“ぽん”と手でも打ちそうな表情で、痛みにかまけてお昼がまだであったことを思い出した楓である。
いつもであるなら、薫だろうが誰であろうが差し置いていの一番に行動する所であるが、今日の楓は痛みを抱えていた。確かにお腹はすいている……。すいてはいるが……。
「……でもでも……」
「そうね……。楓の家に帰ってからにしましょう」
「うん……。じゃぁ、薫は何がいい?」
「まかせるけど、簡単なもので良いわよ」
「ほ~い。よっと。そう言えば、いっつも思うけどこの天板ておっきいよね」
痛みに疲弊していた表情がぱっと明るくなり、半ば楽しそうに語りながら、楓は左腕の腕時計と思しき物の天板を軽く人差し指で押した。だが、天板が開いて終わりではなかった。裏側に折り畳まれていた薄い物が広がったのである。そのサイズ、元の九倍ほどである。
開いた薄い物に、文字やら絵が映し出されている。そう、紙のように薄いペーパー液晶である。
楓が操作しているこの腕時計と思しき物は、二〇世紀に存在した腕時計ではなく、俗に言う携帯端末で“iHand”と言う総称としての商品名で販売されている腕輪タイプである。
「そうね。けれども、ハンディ・タイプにするつもりはないのでしょ?」
「もちろん。こっちの方がなんとなく通信機ぽくて格好いいもんね。……え~っと。グルメ、グルメ。お昼だよねぇ……。お、ここが良いかなぁ。……薫は、ハンディだっけ?」
「えぇ、そうよ。持ち運びがやや難点ではあるのだけれど、ほぼ掌サイズですから操作がしやすいのが良いわね」
「ふ~ん。……おし。でっと。う~ん。……ここにしよ」
ああだこうだと会話の合間に、唸り声を上げながらも、楓はお昼ご飯のお店を決めたようである。
「本日は、当店にお越し頂き、ありがとうございます。それでは、ごゆっくりショッピングをお楽しみ下さい」
「は~い。え~と。何にしようかなぁ」
楓は、所謂ネットショップの来店案内にまで元気よく返答しているが、どうやら心はお昼ご飯の物色に向いているようである。
「う~ん」
唸ること数分。
「薫。これで良い?」
「えぇ。良いわよ」
あれこれ迷ったようなのだが、ベーグルサンドに決めたようである。そして、サンドしている食材はと言えば、女性としてのたしなみと言っては過言であろうが、ヘルシーな野菜が中心の物を選択したようである。
「物はこれで良しっと。バスケットには……。おっけぇ~。ほいっと」
「これで、ご購入は全てですか?」
「はい」
「ご購入頂きました、商品のお届け先を音声入力でお願いします」
「関甲越エリア、百合ヶ丘LB、神奈川、向ヶ丘第一〇住宅、一四階W〇七」
「続きまして、配達到着時刻のご指定をお願いします」
「薫~。帰ったら直ぐ食べるよね?」
「そうね。それで良いわよ」
「おし。え~今が、一二:三〇回ってたのかぁ……。届けて貰う時刻は、一三:〇〇頃で」
「誠に申し訳ありません。現在は少々混み合っておりまして、お届け先には一三:一五頃となります。この時刻でよろしいでしょうか?」
“おぉ”と言う表情をした楓は、傍らの薫に向き直り確認すると薫が頷いた、それを確認した楓は了承する。
「それでは、お支払いに移ります。現在リンクしております端末に、店舗取引証をお送りします、折り返し個人取引証をお送り下さい」
ショップの機械音声が喋り終わると、購入していた画面に被さるように、右から何かを銜えた犬が走り出してきて、そのまま左への走り去っていった。
「あぁ。これって、めんどくさいんだか便利なんだか。え~と。おっけぇ、かな?」
画面に表示された内容を目をぱちくりさせながら読んだ楓は、iHandの腕元のスリットに右手の人差し指をスライドさせる。「ピッ」っと小さい音がして、今度は、犬が何かを銜えて右に走り去って行った。
「ご購入ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
この一連のやりとりは、何処の店で、誰が、何を、と言う証拠を双方で持ち、後で行われる決済時に利用される。つまりは、買い物の時点で金銭のやりとりは行われない後払い方式である。
購入が終わった楓は……。
「んじゃ、iRoboに知らせとくね。と、その前に、液晶を終わないと邪魔」
唸りながら、楓は片手で広がっている液晶を終いに掛かる。
携帯端末の天板をパタンと閉じた楓は、天板の上で軽やかに指を走らせる。すると、「プルルル。プルルル」と呼び出し音が小さく聞こえてくるのと同時に、天板の液晶では犬がドアを引っ掻いているアニメーションが映し出されていた。先程から現れている犬は、楓がアプリでもインストールしたのであろう。外部とのやり取り全てを犬で表現されるようである。
しばらくすると、引っ掻いていたドアが開いて犬が中へと入って行く。
「あ、iRobo」
液晶には、大昔のPCを思わせるスクリーンに、デフォルメしたiRoboがちょこまかと動いている様が映し出されている。
iRobo本体の姿が映っていないのは、通話を受ける場合には、カメラとマイクを使わず回線と直接接続していると言うことなのであろう。
「楓ですか。……はて。今移動中のようですね。まだ学校にいる筈の時間ですが何故です」
「しょうがないじゃない。また痛みが出たんだから」
「ホントですか?」
「ロボットのくせに」
「その発言は許せませんね。良いですか……」
人間であれば、差詰め人差し指を立ててずいっと画面に身を乗り出していることであろう。しかし、映し出されているiRoboに特段の変化はなかった。
「あ~、しまった。楓ちゃんが悪うございました。だからぁ、今買ったお昼を受け取ってよぉ~」
「いえいえ、この際……。おや? お隣に誰かいますか?」
「え? 薫がいるよ」
「そうですか。では、受け取りしておきます」
「こら、ちょっと待ってよぉ。何で薫がいるといきなりOKになる訳? 説明しなさい」
「それは簡単です。薫さんは、間違ったことはしないと判断しているからです」
「む~」
唸ってむくれる楓であるが、ロボット相手でもこの有様である。
一言付け加えておこう。iRoboが楓を邪険にしているわけではなく学習した結果の賜である。何年もの蓄積結果から、楓はこの程度で落ち込まないと理解しているからに他ならない。
「楓の家のiRoboは、相変わらずのようね」
「あははは……。!」
「楓?」
「うん。ちょっとピリッと来た。大丈夫、大丈夫」
「そう」
返事をする薫の表情は、一瞬にして母親のそれに変わっていた。
その後、しばらくはグランド・バスに揺られていた……。
ピンポン。
「間もなく、向ヶ丘第一〇住宅に到着します」
鵜野森CBを出て地上を走っていたグランド・バスは、再び地下へと潜って行く。
2クリックすると展開/収納を切り替えます。
──またぁ。
楓はいつの間にか、木立の中にぽつんと立っていた。
天高く聳え乱立する木々と足下には下草の絨毯が広がっており、一週間前と酷似している、と言うより同じといった方が良さそうである。昨日までの数日は別の場所であった。近くの緑地公園だったり、ショッピングモールと言うのもあった。更には学校の校舎と言うこともあった。その全ては、楓にとっては馴染みのある所ばかりである。只一点、誰もいないことが共通点で、そこにいるのは楓だけと言うことである。
──こ、ここって、学校の木立……だよねぇ。
「しっかし、いっつも静かだよねぇ。何かやだなぁ。それにさ、何でまたここなんだろうか?」
声に出しているところを見ると、少々恐怖が芽生え始めたようである。それでも気を取り直して辺りを見回す楓である。
──む~。周り全部木ばっかり。しかも地面は草ぼうぼうだし。人は見えないしぃ……。……ん! 誰か……いる!
「誰よぉ。出てきなさいよぉ」
一瞬ぴくりと体を震わせ、何者かの気配を感じてきょろきょろと辺りを見回しながら問いかけるが返答がなかった。
楓にしては、この状況を前にして随分と落ち着いているように見えるが、それもこれも、この一週間があったればこそと言ったところであろう。
「ちょっとぉ。いい加減にして……よぉ」
訴えかけている楓のその姿は、次第に腰が引けた状態、つまりはへっぴり腰となっている。声ですら遂には涙声に変わっていった。
楓の足が後ろに出る。
二歩目。
三歩目。
後ろに出る足がぎこちなくもゆっくりであるところから、気配に気圧されながらも恐怖に立ち向かおうとしているのが伺えたのだが……。
「もう、やだよぉ」
振り向いて、早足で何処へともなく向かった。だが、走れど走れど木立が切れない。正面も、左右も、限りが見えない木立が続いていた。
気配は相変わらずあった。周囲の至る所に、あるいは、一定の場所と感じることさえあった。その度、楓は走る方角を変えた。
突然、足を止めた楓は辺りを見回した。
──あ、あれ? ……。
いかに見慣れた場所とは言え、目標物は何もなく、気配のしない方へと走っただけである。何処をどう走っているのか分からなくなったようである。
「はぁ。はぁ」
──! だ、誰!
ある方角の気配が濃くなった。まだ息苦しさはあるものの楓が走り出そうとすると……。
「おぉ~。いった~い」
足でも引っ張られたのか、前のめりに倒れてしまっていた。それでも、口調がいつも通りであるため、まだ心には余裕がありそうである。
「またぁ」
倒れたまま上体を捻って足下に目をやると、案の定、右足に蔓草が絡み付いていたのを発見した。文句を呟きつつ、右足の位置を軸に体を起こそうとした所……。
「おぉ? な、何よぉ~。もう。何でこうなるのかなぁ」
軸にした右足が逆方向に引っ張られて、今度は仰向けに倒されてしまったのである。
──よし止まった。今だ! あ、れ?
「うっそぉ~。上半身にも蔓草が。い、何時の間に……」
動きが止まったことから、すかさず起きようとしたのだが起き上がれなかった。しかもびっくりしたのであろう声に出ている。
引っ張られて引き摺られたことに気を取られたのか、全く気が付かなかったようである。しかし、体の何処かを締め付けられたのなら気が付きそうであるが、そこは、楓ならではと言ったところであろう。
「うくっ!」
暢気に蔓草にがんじがらめにされたことを感心していると、いきなり、体に痛みが走った。
──今日は、まだ……蔓草に……触れて……。くはっ!
そう、まだ蔓草には手も触れていないと言うのに、痛みは待ってくれないようである。
「痛い。痛い」
──……い、痛いのは……。ど……こぉ
楓は痛みに襲われながら痛む箇所を探す。だが、至る所から痛みが押し寄せており、なかなかに場所の特定は出来ないようである。
「いったぁ~い」
今はまだ、暢気な声を上げられるだけましなのかも知れない。激痛ではない、と言うことになるからである。
──つ、蔓草……はずさ……な……きゃ……。う~。
両腕を動かしただけで痛みが膨れ上がった。ならばと右腕だけを動かしてみる、すると、何とか耐えられる程度と分かる。しかし……。
──う~。こ、これじゃ……だめだよぉ。
始めから分かっている筈であるのだが、既に、何が何だか分からなくなっており、蔓草との格闘を前に痛みに翻弄される続ける楓であった。
「!」
楓の動きが止まった。
──また、気配が……。何処?
忘れていた気配が感じられたようであるが、その場所、距離までは流石に分からないようである。
──……い、いやだなぁ。
今の楓にはそれだけでも十分に恐怖を与えていた。蔓草を解こうとした手は止まり、顔には恐怖が張り付き、その目には涙が溢れていた。
「!」
痛みが突然増したようである。意識が別の方に向いたために、“こっちもあるんだよ”とでも言いたいのか絶妙のタイミングである。
楓はその痛みによって、口は開いたものの声を上げる暇もないまま体が弓なりに撓った。
「はぁはぁ」
──……手を……何とか……うご……。
「あうっ!」
楓の手が胸の下の蔓草に伸びたとき、楓の体がぴくんと跳ね上がり硬直した。
──……も、もう。やめ……て……。
その言葉に、意地悪をしているかのように最大の痛みが走り抜けた。開けた口からは声が出ず、ブリッジでもしているかの如くに撓った。しばし後、その姿勢から解放されると息も絶え絶えであった。
──こ、こんどこそ。……し、死ぬかと……思ったぁ……。
ぐったりした楓は、その場を動くことすら出来なかった。
──も、も……だめ……。
楓の意識は、そこで途絶える。
*
──まったくぅ。何なんだろうか? あの夢って……。
「……うにゃぁ~!」
「か、楓が壊れた?」
正面にいる聖美が、ビックリして口走った。
「わぁ~! っとっと。ふぇ~。危うくひっくり返るところだった。ふぅ~」
背もたれのない長いすに座っていたために仰け反る形となってしまい、その状態を何とか戻しつつも右腕で額をぬぐう仕草までしている。
ボーッとしているように見えていた楓が、いきなり奇声を上げたのである。聖美にしてみれば、今だかつてない出来事であったのであろう。
「……お? あにやってんの? 聖美」
聖美の声に反応したのか、現実に戻ってきた楓が、聖美の状態に問い掛けている。聖美はと言えば、訝しんで身構えており、明子はあんぐり口を開けたまま固まっている。もう一人、楓の傍らにいる薫はと言えば、特に普段通りのようで流石に何事にも動じないようである。いや、右耳を手で押さえていた。そうとうに五月蠅かったようである。
「か、楓?」
「あに?」
「大丈夫~?」
「だから、あにが」
この状況でいち早く口を開いたのは聖美である。しかし、質問を返されて困惑の表情を浮かべざる終えなかった。
聖美が、楓の様子がおかしいと感じたのは今の奇声に始まった事ではない。ここ一週間ほど続いており、喧嘩相手である楓に何を投げかけても乗ってこなかった為である。嫌われたと言うのはあり得ないと思いつつも、何故か乗って来てくれないことから意気消沈していたのである。
何か不味いことでも言ったのか?
いや、楓に限って……。いやいや、そもそもそれが間違いでは?
ならば、何かがあるのか?
等々と、堂々巡りにも等しい考えに陥っていた聖美であった。そこへこの奇声である。何事かが起こったと考えても不思議ではない。
「今の大声よ」
缶飲料を飲みながら、聖美のフォローを涼しげにしている薫は平然としている様子である。何せ楓と一緒にいる限り、いや、今の痛みがある限り所構わず発症するのである、何が起きたとしても恐れてばかりいられないと言ったところであろう。
「へ?」
「楓が上げたでしょ」
「うっそ~。嘘だよねぇ、聖美」
楓の懇願むなしく、聖美は、思いっきり首を左右に振った。
「周りを見てご覧なさい」
言われて周囲を見回すと、お隣を始め遠くに至っては立ち見が出ていた。
楓達が今何処にいるかと言えば、学生会館一階にある談話室で、その中ほどである。よって、こういった場所で大声など上げようものならどうなるか……。ここに至って、自分の現状を把握した楓である。
「ホント……みたいだねぇ」
「あ、あのねぇ。すんごかったんだよ」
「ホントに?」
「だからぁ~」
「うぅ~」
聖美の念押しに観念したのか縮こまる楓。俯いているところを見ると、穴があったら入りたいとでも思っているのであろう。原因は分かっていた。夢のことを考え、纏まらなくなったため苛ついたからだ、などと考えていると……。
「で。何抱えてんの」
「ほへ?」
「だから。何か悩みがあるんじゃ」
いつになく真剣な表情で、楓に問いを投げかける聖美。ここに至って、問いただす策に出たようである。
毎日のように何かに付け言い合って喧嘩もしているが、その前に友人である(喧嘩友達という奴であろうか)。何をふっかけても乗ってこない、ため息が多くなった、ここ一週間の変な様子、以上のことを聖美なりに考えて、痛み以外に更なる何かがあったと考えたのであろう。
目を瞬かせる楓は、あからさまに表情が変わった。正に“なんで分かったの”といった表情である。
「え。あ。え~」
更に表情が変わって、目が泳ぎ続ける楓に業を煮やした聖美が……。
「白状しろ!」
楓の胸元を掴み上げる聖美は、少々前屈みになっており、更にはスカートが捲れ上がるのにも構わず、左足を楓の椅子の端に乗せた姿勢は迫力満点である。
「聖美、なんてかっこうしてるのよぉ。一応は、嫁入り前でしょ」
「一応はってあによ」
「それで楓。悩みって言うのを聞こうかしら」
矛先が戻ってきた楓は、突き刺さる薫の視線にとうとう観念して、ここ一週間程のことを語って聞かせた。
「何それ。おっもしろぉ~」
「ん!」
「あによぉ。率直な感想じゃない」
「む~」
「二人共、止めなさい」
楓は夢の話を一通り終えた後、吐露したことで気が楽になったのであろう。聖美と早々に睨み合いを始めてしまい、これまた早々に薫の雷に見舞われている。
「不思議な夢よねぇ」
夢見がちの乙女のポーズを取って語る明子は、演技でもしているかのようである。
確かに不思議な夢である。夢占いならさしずめ最悪と出そうである。植物と気配、そして、楓が気にしている事柄である痛み。それらが単に夢に出ただけと言われればそれまでである。だが疑問点もある。楓は、今までに蔓草に絡まったことはない。それと、場所が木立、緑地公園、ショッピングモールなどであること。つまりは、常に同じ場所ではないと言うことである。
深読みして考えるなら、場所と言うよりは、痛み、植物、そして気配に、何らかしらのメッセージ性はないのかと言うことであるが、今のところ、これと思しき内容は見あたらない。楓が見落としている可能性は否定できないところではあるのだが……。
「楓」
「あに」
「突然だけど、霊感なんてあったの?」
「ふえ? んなもの、ある訳ないよぉ」
「そりゃそうだ」
ニヤニヤする聖美は、どうやらこれを何かのネタに使うつもりのようである。
「む~」
にやつく聖美と唸りを上げる楓、また睨み合いを始めてしまっている。どうやってもこの二人はこうなってしまうようである。
「楓。その痛みは、いつもと同じかしら?」
「ん? え~と。ん~。おんなじ……かな?」
「そう……」
「何を考えてるの薫」
「これと言って、何か考えがある訳ではないのだけれど……」
「薫が答えに詰まる……か」
薫と明子のまともな会話をしている中でも……。
「あたしがいれば、そんな蔓草くらい」
「あによぉ。夢んなんかだし、聖美、出てこなかったもん」
「あんで、あたしを出さないの」
「知らないって。出てこないんだもん」
「あんですってぇ~」
ぎゃぁぎゃぁと、騒ぎ立てる二人がいた。どうやらこれで、いつもの状態に戻りつつあるようで、いつしか周囲の注意も引いていった。
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遠くに聳え立つ雲と、細長い薄い雲が幾重にも連なり、青空にアクセントを施したよう。それでも、久し振りの青空には違いなかった。
「待ちなさいよぉ、楓ぇ~」
「あんで、楓ちゃんが待つのよぉ」
「あたしが決めたんだからぁ」
「あんで、聖美が決めんのよぉ」
楓と聖美は肩を押し合いながら先を争っているようである。一体、何をやっているのか。
「ゴールデンウィークの初日から、何をやっているのかしらね」
「ま。しょうがないでしょ。初日だけケーキバイキングが破格値だものね」
「もう! 邪魔しないでよぉ」
「あんですってぇ」
鵜野森CB内の“憩いの一時通り”を、約二名が小競り合いをしながら早足で進んでいる所である。目的であるケーキバイキングに行くだけなのだが、何故かこの様な展開になってしまっている。そこはそれ、楓と聖美は何につけ言い争う口実、いやいや、競い合うネタにしてしまうのである。ある意味において素晴らしい才能である。
「まったく。あの二人も飽きないわねぇ」
「本当に」
先を行く二人には全く聞こえていないようだが、二人の後ろを歩いている薫と明子は、この先に待つであろう傍迷惑に、少々気落ちしている様子が垣間見える。しかしそうは言っても、二人だけで行動させる気にはなれないところに、薫と明子の苦労が窺い知れるというものである。
二十歳にもなろうかという女性が四人も集まればショッピングとなるのであろうが、この二人がいる以上、先ず食い気が先行する。
「楓ちゃんが先!」
「ぜぇ~ったい、あ・た・し!」
さて、目当ての店の前に到着した楓と聖美は、とうとう掴み合いを始める始末である。火花を散らして睨み合う二人に、頭を抱える二人が少しだけ離れて立ち止まっていた。
「止めさせないと迷惑になるわね」
「薫。ほっといて行きましょ。そうすれば、ね」
「あらそうね。その方が自然消滅するわね」
即座に止めに入ろうとする薫の腕を掴んで、いい案が思いついたと言わんばかりの明子である。薫も一理あると納得して明子と共に、睨み合って掴み合う二人の脇を素通りして先に入店する。
「お二人ですか?」
「いえ。あそこで掴み合っている二人と、四人ですよ」
明子が指し示した先には、言い争いを続けている楓と聖美の姿が目に飛び込んできた。その二人の形相を見た店員が、ぎょっとしたのは言うまでもない。
「あ、あの。ど、どういたしましょうか?」
店員のあからさまな表情からも伺える“入って欲しくない”と言いたげなのを無視して……。
「あの二人は後で良いですから、案内していただけますか?」
「そ、それでは。ご、ご案内いたします」
そう言われてしまえば店員としても案内しないわけにはいかず、薫と明子を席へと案内をする。案内された場所は、気を利かせたのか、ちょうど空いていたからなのか、入り口に近い窓際であった。
店員は終始、その視線を一向に止めようとしない二人に向けていたようである。その表では、周りが見えなくなっている楓と聖美が未だに睨み合ったままである。
「いい加減に止めさせないと、本当に傍迷惑ね」
窓から外を眺めていた薫が、明子が止めようとする間もなく二人の元へと向かった。そして、雷が落ちたのは言う今でもないことである。
楓と聖美を引き連れて戻って来ると、先ほどの店員が、何とも言えない表情で出迎えた事を付け加えておこう。
*
「あ~。あの味がバイキングで堪能できるなんて、幸せよねぇ」
「あにが?」
「そうよねぇ。楓と聖美は、そんな暇なかったわよねぇ。いつものこととは言え、薫のお説教聞きながらだったものねぇ。挙げ句、殆どやけ食いと競争だったしね」
やけ食いと競争になったのには理由はあるが、大方の見当は付くであろう。それは、薫と明子が二人を置いて先に入ってしまったためであり、入店競争の代わりにバイキングの量での勝負と言ったところであろう。やはり、何処まで行ってもお子様な二人である。
さて、今の四人はと言えば、お店を出て辺りをのんびりと歩いている途中であり、その道すがら明子が面白半分に話を始めたと言ったところである。
「明子ねぇ、そんな訳ないじゃん。あたしだってねぇ、ちゃんと味わってるんだから」
「へぇ、そうなんだぁ」
「楓ちゃんだって、味くらい分かるよぉ」
その口調などから、どう聞いてもからかっているのが分かりそうであるのだが、楓と聖美は毎度の事ながら反撃に出てしまうのである。むすっとした表情で明子を睨む二人だが、明子はそれを意に介していないのが表情からも分かる。
「明子。その辺にしておきなさいよ。……それから二人共、からかわれているのは分かっているでしょ」
薫の言葉を聞いて始めて気が付いたようで、睨みを更にきかせる二人である。
「あの……ね。話せば分かる……訳ないようね。ごめんねぇ」
明子の狼狽ぶりに、更に楓と聖美が一歩踏み込んで明子を追い詰める。
「あっ!」
楓が突然屈み込んだのだが、三人は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。そうこうする内に痛みに蹲っていられなくなったのか、楓がどっと横倒しになる。すると我に変えた聖美が……。
「楓!」
──い……た……す……ぎ……。
楓を揺り動かすのだが、その表情は険しく痛みの程が窺い知れた。いつも以上の痛みが襲っているようである。
「薫、どうしよう」
「とりあえず、移動させましょう」
4クリックすると展開/収納を切り替えます。
「ねぇ、利樹兄ちゃん。いいでしょう~」
「いや、それはちょっと困りましたね」
袖を引っ張る女の子、いや“少女”と言った方が良いのか。神本里子、一八歳。専課学校、社会法律学部社会科の四年生である。
目は大きめで目尻はそれほど下がってはいない。鼻は少々大きめで鼻筋が通っている細面の顔立ちである。髪型は、セミロングのストレートで色は黒である。
この顔立ちに加え、胸もおしりもあまり主張はしていない。そうは言っても一般的な女性特有の体型ではある。であるのだが、その容貌と身長が一六〇・八㎝であるため、子供に間違われること数知れずである。その一方で、傍にいると何故か心が和やかになる、彼女が通う学校内での喧嘩を止めたこと数知れず。と言うやや不思議な特性を持つ人物である。
さて、本日の服装はと言えば、敢えて本日の言動に合わせたのであろう。トップは、ボタン止めする部分にフリルをあしらったベージュのブラウス。ボトムは、フリルが多くあしらわれた淡い赤のスカート。シューズは、ピンクのスニーカーを履いている。
この様な出で立ちの里子は、まるで子供のように知り合いと思しき男性に甘えているのであった。
男性の方は、森里利樹、二六歳。国土省環境局に努めている。所謂公務員と言う奴である。
目は細い部類に入るが少々釣り目気味、鼻は小さく鼻筋が通っている。すっきりした逆三角形の顔立ちである。
髪型は、耳が出ている程度で大ざっぱに分けられており、色は黒である。
本日の服装はと言えば、トップはグレーのポロシャツ。ボトムは少々色の抜けたデニム。シューズは普段使っているのであろう黒のスニーカーを履いている。
公務員であると言うことは殆どがデスクワークの筈であるが、身長が一七〇㎝である事も手伝っているのか太っているようには見えない体格である。
さて、里子があまりにも子供じみた出で立ちであるため、利樹のラフな格好が二人のアンバランスさという点で、周囲の視線を集めていた。
「里子ちゃん。その喋り方、止めませんか?」
「なんでぇ~」
「もう、子供ではないのですから」
「良いじゃない。利樹兄ちゃんとデートなんて、そうそうできないんだから」
「いや、デートと言われましてもですねぇ」
里子の言動には、明らかにご近所のお兄さん、あるいは、小さい頃からの憧れの人と言ったところが多分に含まれており、たまたま、お休みと聞きつけ引っ張り出してきたと言うのが感じられる。
じゃれ合っているようにも見える会話をしながら、往来を進んでいると人集りに遭遇する。
「ちょっと待っていないさい」
「え~。……分かった」
「ちょ、ちょっとすいません」
利樹は里子を残してその人集りの中へと分け入って行く。
「とりあえず、移動させましょう」
「……貴方は……本藤……さん? じゃないですか」
分け入った先には、横たわっている女性がおり、友人と思しき人達が運ぼうとしているところであった。その中の一人に見覚えがあったようである。
「……あら。森里さん、でしたわね」
その呼び掛けに、本藤と呼ばれた女性が振り返って答えている。
「どうかされましたか?」
「見りゃわかるじゃん。楓がまた倒れたんだよ」
「なるほど。そのようですね」
「あんてこと言うんだよ。このおじん!」
ぶっきらぼうな聖美の返答に、冷静さを保ったまま返す利樹。だが、そのあまりにも冷静すぎた応対のため、聖美が逆に切れかけてしまったようである。
薫とは知り合いのようだが、自分達の中に割って入ってきた利樹に、聖美が更に何か言おうとするのを薫に止められて渋々口を閉ざすこととなった。それで引き下がる聖美ではなく、視線は利樹を睨んでいた。
「申し訳ないですね。この喋り方は癖なものですから。失礼」
聖美の視線に気が付いたのか、利樹は申し訳なさそうな表情で説明し、楓を抱えてその場から移動していく。
*
道行く人の視線が集まっているここは、ブティックなどの衣料品を纏めたストアの前である。
表にある装飾をあしらったベンチを借用し女性を一人横たえ、その周囲には数人の男女が立っていた。
「楓ぇ~」
「聖美。何情けない声を出してるのよ」
「だってぇ~、いつもより長いじゃん」
「そうねぇ。痛みの方も激しいようだし……」
薫が、楓の汗を拭いながらそう呟いた。もう、倒れてから一〇分は経ったであろうか。楓の痛みは一向に治まる気配を見せていない。いつもと同じ……、そう高を括っていたのだが、どうやら今回はそうはいかないようである。今は倒れた時程の険しい表情が消え失せている。楽になったからなのか、あるいは意識がないからなのか、端から見ているだけでは伺い知ることは出来ない。
「藤本さんは、まだ痛みが続いていたのですか」
「えぇ」
「いつもこれ程なのですか?」
「いえ。いつもですと、既に治まっているのですけれど、今日は……」
「そうですか……。ですが、いつまでもここにいるのも何ですね……」
薫の返答を聞きながら利樹は顎に手をやり、これから薫達を特に楓をどうするか、いつまでここにいたものかと思案しているようである。その間も、ほんの少しだけ離れた場所で手持ちぶさたにしている少女がいた。
里子である。
せっかくのデートであるのに何故こうなるのか。里子はふと、神本家、森里家で何かしようとすると、何故か、子供達だけになることが多くなるのを思い出していた。その時その時の用事について、いつも教えて貰えていなかった事も思い出したのである。現に今も……。いや、今のこの事態は、知り合いであるならば当然無視は出来ないであろうと言う事も里子は理解できる。あまり理解したくはないであろうが。
「……利樹兄ちゃん。私のことは良いから、この人を送っていったら?」
「ん?」
突然の申し出に少々戸惑ったようである。先ほどまではあんなに甘えん坊だったと言うのにと……。いや、今日は久し振りだった所為もあるのであろうと思い直す利樹であった。
「本藤さん」
「はい」
「藤本さんの自宅、分かりますか? 僕はエレカで来ていますので送りましょう」
「はい。近所ですから。ですが、こちらの方とのお約束は……」
「大丈夫ですよ。利樹兄ちゃんはこういう事を放っておけないし。私も我が儘ばかり言っている歳でもないですから。……本当ですよ」
里子は、はにかんだ笑みを浮かべると、その場にいた者達も釣られたのであろうか、いつの間にか笑いがこぼれていた。
「そこまで仰るのでしたら。お言葉に甘えて、楓と私だけ送っていただこうかしら」
「えぇ~」
「当たり前でしょ、聖美。楓のことは心配だけど、そちらの、え~と……」
「あ、すいません。神本里子と言います」
「里子さん、で良いかしら?」
「あ。これはお気遣いすいません。里子ちゃん、この人達を困らせちゃだめですよ」
「分かってるわよ、大丈夫。それより利樹兄ちゃんの方こそ、ちゃんと送っていってあげてね」
「分かってますよ」
利樹と楓、それに薫を見送り、後に残った聖美と明子、そこに里子が加わった三人は、“憩いの一時通り”に向かって歩き出した。
*
「すいません。こんなことがあるなら、もう少し近い場所に止めれば良かったですね」
「いえ、お構いなく。この様な事態の想定など出来るものではありませんから……」
既に地上から地下へと降りており、がらんとした装飾のない打ちっ放しの壁に囲まれた通路を、楓を抱えた利樹と薫が歩いていた。抱えながら、薫に気を遣ったのか済まなそうに話しかけてくる利樹と、極ありきたりな返事を返す薫がいた。
利樹の言う通り、このCBには駐車場が幾つか点在しており、これから向かう先は、利樹や薫達がいた場所からは一番遠い場所である。一方で、薫の言い分にも一理ある訳で、どちらにしても現状では致し方がない。
「そう言えばこの辺りは、グランド・バスの停車場でしたわね」
「そうですね。もう少し下の階だったと思いますが、位置的にはそうですね。鵜野森は短距離と中距離のターミナルですから。……もう少し行くと、確か、右手に南駐車場口があった筈です」
薫達が日常使っているバスは短距離と定義され、それ以外のルートの大半が中距離である。また、ターミナル化しているところなどは、単純に商業施設を集めたブロックではないと言うところに合理性が垣間見える。
「そうですか」
会話が途切れがちとなり、黙々と、淡々と歩いて行く二人は、利樹が言ったグランド・バスの出入り口を通り過ぎても尚、先へと進んでいく。
「この辺りは、始めてきました」
「そうだと……思いますよ。殆どの方は、グランド・バスの……中央口を使いますから。ここは……駐車場を使う人くらい……でしょう」
薫が珍しく感想を述べている一方で、聞いている利樹は、それどころではなくなりつつあるような喋り方になってきていた。
「そう言えば、大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「いくら男性とは言え、人を抱えて長距離を歩くのは大変かと思いますが」
「まぁ、そうですね。確かに……楽ではありませんが。もう少しですから……何とか」
「そうですか」
里子と約束をした為なのかどうかは分からないが、利樹は、踏ん張って楓を抱えて車のある場所まで歩き続けた。
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流れてゆく街並み……。車窓から見える景色はプライバシーガラスのため、晴天にも関わらず薄曇りに見えている。
未だ目覚めぬ楓と付き添った薫は、利樹のエレカに乗っていた。
この時代、個人で車を持つ人は減っていた。公共の交通機関が、より利用者の利便性を考えて進化したためである。そうは言っても、趣味や仕事の都合などの理由で、乗用車としてのエレカは未だに存在している。利樹もまたそんな部類に入るのかも知れない。
三人を乗せたエレカは、鵜野森CBを後にして、既に地下から地上に出ていた。
「藤本さんの様子はどうですか」
「まだ、呻き声すら上げていません。意識もあるのかどうか……」
「そうですか」
重苦しい空気が車内を包んでいた。楓が倒れてから一時間になろうかと言う時間が経っていた。
いつもより痛みが激しいのであろうか、あるいは、痛みに負けて意識を手放しているのであろうか。薫や友人達にはそれを知る術はない。ただ、付き添っている薫が感じる呼吸と鼓動が、楓が無事であることを感じさせる唯一のことであった。
「……楓!」
一瞬、何かを発したように感じた薫だが、楓の表情は、痛みを感じているどころか寝顔のように見えるだけであった。
「本藤さん」
「はい」
「心配のしすぎは精神的に良くないですよ。大丈夫。藤本さんは元気になります」
「そうだと良いのですが……」
「そう、信じましょう」
「えぇ」
利樹の言う通り、心配のしすぎは意識が戻った楓を逆に心配させるであろう。それは薫とて分かっていることである。しかし心配せずにはいられない。それは、相手が楓だから余計にそう感じているのかも知れない。
「……う~……」
楓に険しいながら表情が戻る。
「……楓!」
目に涙を浮かべた薫が叫んだ。だが、直ぐに楓の表情から険しさが消えてしまい、それと同時に呻き声も消える。まだ、痛みに耐えきれないとでも言うのであろうか。楓が、必死に何かと戦っているのであろうか。それが時折、顔を覗かせているだけなのかも知れない。
利樹の操るエレカは、百合ヶ丘LBのジャンクションに差し掛かったようで地下へと潜っていく。と、緩く右に負荷を感じた薫。どうやら、利樹が車線を変えたようである。
しばらくすると、先ほどより強く右に負荷がかかる。
「森里さん。あの……」
「あ、申し訳ありません。今し方の藤本さんの反応がちょっと気になりまして」
「それと、方向を変えたことと何か?」
「はぁ。まだ何とも。でも、何かが分かるかも知れません」
複雑なジャンクションを利樹は左回りでルートを変えていった。一体何処へ向かっているのか。しばらくするとエレカの前方に電灯とは違う明かりが見えてきた。どうやらジャンクションを抜け、地上に出るようである。
「……何故、戻るようにしたのですか?」
「先ほども申し上げた通りです。もう少しだけ、このまま行かせて下さい。きちんとお送りします」
車窓の景色に気が付いた薫が問い掛ける。一方で利樹の言葉に、何かをしようとしていることは分かるのだが、何をする積もりなのか、薫にはまだその真意が理解できていなかった。それより、早く連れ帰って休ませてあげたいという思いが強かったのである。
「……う~……」
楓の呻きが聞こえたのは、戻るルートになってしばらくしてからである。この時薫は、楓を見つつ利樹も見ていた。何故、真っ直ぐ帰してくれなかったのかを薫なりに詮索していたのである。
しばらく、幾つもの住宅ブロックの何れにも入らないように分岐を選択してエレカを駆る利樹。その間に、楓の呻き声が何度か上がった。その中で目に付いたのは、植物の不治の病として知られている“枯れと萌え”である。これが楓の痛みと関係するとでも? あるいは何か別の理由でもあるのか。薫は、幾つかの疑問を感じつつも利樹の思惑を計りかねていた。
「森里さん。そろそろよろしいのではないですか?」
「え?」
「楓がかわいそうです……」
利樹がちらりと見た薫は、悲しみと不条理な憎しみが綯い交ぜになったような、何とも言い難い表情をしていた。目にはうっすらと涙も浮かんでいた。少々やりすぎたか、そう利樹は思わざる終えなかった。
「……そうですね」
利樹そう呟いて、楓の自宅がある向ヶ丘第一〇住宅へとエレカを向けた。
~第二章 「夢」 完
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