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Soly japanese only.
書き物の部屋のイメージ オリジナルと二次創作を揃えております。拙い文章ですがよろしく(^_^)!
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 空には、見渡す限り雲一つ無い青空が広がっている。
 晴天と言って良い空の下では、既に、五月蠅いくらいに蝉の声が聞こえている。その声は、林と呼ぶには小さい木立からであり、そこそこ大きな敷地の一角にあった。
 蝉の声に混じって、人の声も負けない程度で聞こえている。
「西暦二一二八年四月五日、月曜日。お昼のニュースです。
 それでは、本日これまでのニュース・ダイジェストと、最新のニュースをお伝えします……」
 どうやら人の声は、テレビから流れてくるキャスターの声であったようだ。
 この敷地内で一番高い建物であり、木立側が開いたコの字型に建てられた内の北側に面した建物の壁面からである。だが、それを聞く人の姿が、木立にも周辺にも見当たらない。
「それでは、現在のお天気をお伝えします。
 関甲越エリアでは雲一つなく晴天ですが、気温が三〇度、湿度が八〇%に達しており……」
 天然のサウナになりつつあるようだ。これでは、屋外にいようとはなかなか思わないであろう。では、一体どこにいるのか。
 木立に隣接し、ニュースを流している建物群の斜向かいにある背の引く建物に詰めかけているのが、屋外との出入り口に見て取れる。
 出入り口の上には、「学生会館」と書かれた看板が掲げてある。
 そう、ここは学校である。ATSUBB専課学校と呼ばれている学校なのである。
 ”ATSU”とは、神奈川の厚木から由来し、”BB”とはBusiness Blockの略語で、企業を集中させたブロックのことである。
 専課学校とは略称であり、正式には専門課程学校である。読んで字の如く、専門的な学問を学ぶ場所である。
「痛っ!」
 学生会館内、二階に上がる階段の踊り場、そこで足を押さえて、やや大きい声で叫んで蹲った女性がいた。
「楓! しっかりしなさい!」
「楓!」
 楓は、苦悶の表情を浮かべ必死に耐えている。
 周りで呼び掛けてはいるものの、今の楓に聞こえているのか、それほどに表情は険しい。
 楓と呼ばれた女性。藤本楓、一九歳。
 目は大きめで、目尻が僅かに垂れているようにも見える。鼻は小さい方で、鼻筋が見えにくいためちょこんと乗ったように見える。輪郭は、丸顔を少しだけ細面にした顔立ちである。
 髪型はストレートのショートカットで、色は黒である。
 以上のように、一見すると子供と間違えそうな顔立ちの楓は、身長がこの時代では低い一六五㎝であることも手伝って、その印象に拍車をかけている。
 全体がこぢんまりしているため、元々大きめであるヒップが強調されているのは内緒である。
 本日の服装はと言えば、トップは、白地に淡い緑の細い縦ストライプのシャツ。ボトムは、深緑のキュロットスカート。シューズは動きやすさで選んだのであろう、茶系がベースのパンプス風のスニーカーを履いている。
 キュム、キュム。
 楓を含めた数人が、登ろうとしていた階段を、数人の男達が降りてくる。
「……おや。誰が座り込んでいるのかと思えば、また君ですか」
 その声に、友人の一人が視線を向ける。
「あなたには関係のないことです。素通りしていただいて結構です」
「薫、ちょっと……」
 少々攻撃的にも聞こえる言葉を発したのは、薫と呼ばれた女性。
 本藤薫、一九歳。
 目は、細い部類で目尻は垂れてはいない。鼻は小さめで、鼻筋が通っている。輪郭は、丸顔よりは細面に近い顔立ちである。
 髪型はストレートで肩より長く、色は黒である。
 年齢より、幾分か上に見られそうな顔立ちの薫なのだが、身長は楓と同様に低く一六七㎝で、大きめのヒップが、やはり、身長のせいで強調されている。
 本日の服装はと言えば、トップは、淡いオレンジに茶系の刺繍の入ったブラウス。ボトムは、赤茶のフレアスカート。シューズは、ヒールの低いブラウンのパンプスを履いている。
「ちょっと、枯下さんねぇ……」
 見下したような視線に、別の友人が語気を強めて訴えかけているが、言葉だけではなく、目も”あなたは何様だ”と訴えているように見える。
「聖美。止めなさい」
 薫が口を挟んで言葉の続きを止めさせたのは、そのまま言い続けさせると危険と判断したからのようである。
「……ふん。そうするつもりだ。だが、通行の邪魔だとは思わないか?」
 薫の物言いに若干臆しながら、更に、難癖を付けてくる枯下と呼ばれた男性。
 枯下貴人、二三歳。
 目は、垂れ目でもなく釣り目でもなく細い。鼻は小振りだが、鼻筋はやや高い。輪郭は、面長の顔立ちである。
 身長は、標準的な一七五・四㎝で痩せめの体格である。面長の顔立ちも手伝って、見た目以上にひょろっとした印象を与えている。
 服装はと言えば、白衣の前を開けて羽織っており、そこから紺のポロシャツと濃紺のデニムが覗いている。シューズもありきたりなスニーカーである。どうやら服装には、あまり気を遣う男ではないようである。
「……あによ。楓と同じ科の研究員のくせに。しかも先輩だってのに……」
 聖美は、薫に止めさせられたためなのであろう、小さな声でぶつぶつと文句を呟いている。
 研究員(二〇〜二一世紀半ば頃の大学院生に相当)であると言うことは、この学校を卒業したと言うことである、つまりは、楓の先輩に当たると言うことである。
 面識があるのは、貴人が化学科の講義実験で助手を勤めているためである。只、薫や聖美が知っているのはある意味において間接的である。いつの頃からであろうか、楓のこのような状態に出くわす度、嫌み、難癖を付けるようになった事からである。
 それでも、たとえそれが先輩に当たる人物であろうとも、このような仕打ちを受けている限り、強い態度に出ざる終えなかった。
 薫は、更に目を細め睨み付ける。
「……緊急事態ですのでお構いなく。素通りするおつもりなら、どうぞお通り下さい」
 すっくと立ち上がった薫は、楓を背に左手を階下へ向ける。
 貴人には癇に障ったのであろう。”チッ”っと小さく漏らし、その場を立ち去って行く。
 貴人が立ち去ると、薫は周囲の野次馬に会釈をする。
 集まっていた学生は、騒動が終わったと感じたのであろう。一人また一人と、その場を離れて行った。
「う〜」
「あっ。楓ぇ、大丈夫?」
「聖美、う……ん。あたたた……」
 台詞だけであると、楓との区別が付きにくい、聖美と呼ばれた女性。
 岩間聖美、一九歳。
 目は大きい方で、垂れ目でも釣り目でもない。鼻は、少々大きめであるが鼻筋が通っているために目立っていない。輪郭は、やや鰓の張ったホームベースに近い顔立ちである。
 髪型は、ややウェーブが掛かったセミロングで、色はやや茶である。
 身長はこの時代の標準である一七〇㎝であるが、小さめのヒップであるためスレンダーと言える。
 本日の服装はと言えば、トップは、淡い赤系でチェック柄のシャツ。ボトムは、トップより濃い赤の八分丈の綿パン。シューズはベージュのスニーカーを履いている。
「大丈夫じゃないし。全く楓ってば」
 楓は、自力で立ち上がろうとするが……。
「えへ。ま……いつも……よりは……ね。おっと」
「あぁ、もう。無理だってぇ。ほら」
「あ、あんがと。聖美」
 立ち上がり掛けたものの蹌踉めいてしまい、聖美に支えられて立ち上がった。
「いいってば」
 その場に残っていた数人は、聖美に支えられてそこそこ回復した楓を伴って、ゆっくりと階段を上がっていった。

     *

「まっふぁふ、わにお。あのおとふぉ」
「聖美。口に食べ物を入れたまま喋っちゃだめでしょ」
 学生会館の二階にあるオープン食堂・喫茶の一角に席を取って、楓達は、やっと昼食にありついていた。
 聖美は、依然として貴人のことを怒っているようなのだが、聖美の正面に座る楓は……。
「あ〜、でもでも、枯下さんだって何か理由が……」
「む。あによ楓ったら。あんで枯下さんの肩持つわけぇ?」
 楓の言い分に、納得のいかない聖美が言い返している。その傍らでは、意に介しているのかいないのか、黙々と食事をしている薫ともう一人の友人がいた。
「う〜。そう言う訳じゃぁ……」
「あ〜。じゃぁどう言う訳だとぉ」
「う〜」
 確かに、何かがあってと言う訳ではないのであろう。只、何となく何かがあるのかな? と言った程度であるようだ。故に、眉をしかめて口をとんがらせて唸り声を上げ、握りしめた両手をテーブルの上でわなわなと振るわせるだけで、答えに詰まるしかなかったのである。
「ヨッしゃぁ! あたしの勝ちぃ!」
 少々大きな声で小さくガッツポーズをして勝ち名乗りを上げる聖美を、憎らしそうに見詰める楓である。
「う〜」
 楓は呻いた後、中断していた昼食を豪快に食べ始める。
 ぱくぱく。
 ごくん。
 ごくごく。
 まさしく憂さ晴らしである。貴人の嫌みに、と言うより、聖美に言い返せなかったことに対してなのであろう。
 その食べっぷりを見ていた聖美は、張り合おうとするかのように豪快に食べ始めた。
「ふぅ〜」
「ホント。この二人を見てると飽きないわよねぇ」
 そう言って、楓と聖美のじゃれ合いを楽しそうに眺めていたのは、もう一人の友人で、少々のんびりした口調をしている女性。
 山田明子、一九歳。
 目は細めで、鋭い印象がある。鼻は小さめで、鼻筋が通っている。輪郭は、細面の顔立ちである。
 髪型は、腰まで届くストレートで、色は少々茶の入った黒である。
 身長は、この時代の標準的な一七二㎝で、小さいヒップでスレンダーと言える。
 本日の服装はと言えば、トップは、薄いグレーのブラウス。ボトムは、薄い青で丈の長いフレアスカート。シューズは、パステル・ブルーが基調のスニーカーである。
「そうね。似たもの同士ですものね」
「あに?」
 手を止めた楓が聞き直す。
「楓ちゃんと、誰が似てるって?」
「それはね。聖美、よ」
「あぁ。明子はなんて事言うかなぁ」
 呆れながら、目の前の聖美を睨む。
「あによぉ。あたしだってねぇ、楓と一緒は、い、や、だ、よぉ」
「あんですってぇ〜」
 今にもつかみ合いそうな二人なのだが……。
「楓! 聖美! いい加減になさい!」
 とうとう薫の雷が落ちた。
 箸の落ちる音が小さく聞こえた。どうやら、剣幕にびっくりした楓が取り落としたようである。
 聖美も大差ないのだが、かなり縮こまっている。
「だってぇ、聖美がぁ」
「うっそぉ。楓が悪いぃ」
 正に火花が散る勢いで睨む二人を余所に、薫がすっと立ち上がって、その場を無言で立ち去ってしまった。
「あらまぁ。薫、怒っちゃったみたいね。
 ……ふふん。ま、でも、大丈夫じゃない、かな?」
「え?」
「あ?」
 明子は笑みを浮かべつつ、楓と聖美の慌て振りを楽しんでいた。
 その一方で、慌てながら残りの昼食を平らげる二人がいた。

     *

 日差しの色は変わり始めたものの、まだ暑さが残る一七:三〇を回った頃……。
 楓達四人はいつも寄り道をする、鵜野森CBにあるハンバーガー・ショップにいた。
 鵜野森とは、神奈川の相模原にあり、東京の町田との境にある地名であり、"CB"とは"Commerce Block"の略で商業ブロックに当たる。
「楓はねぇ……人が……よすぎ!」
 ハンバーガーを頬張りながら、楓に文句を告げている聖美に対して、それを受ける楓は……。
「そう……かなぁ。……枯下さん……にだって……いろいろ……考えが……あるんじゃない……かなぁ」
 対抗意識からなのであろう、楓も同じように頬張りながら異を唱える。
 詰まるところこの二人は、お互いをライバル視していると言うことである。
「二人共。食べながら喋るの止めなさいよ」
 二人の姿勢に呆れかえった明子が、小言にも聞こえるように呟いたのだが、果たして、どれほどの効果があるのやら。
「良し! 次行くよ!」
 先に平らげた聖美は、トレーを持って席を離れる。
 すると……。
「あ、ちょっと、ずっこい」
 楓も負けじと、追い掛けるように席を離れていく。
「全く、あの二人は……。いつまで子供でいるつもりかしらね」
 今までもこのようであったのであろう。
 楓も聖美も一九歳とは言い難い行動、言動が目立っており、つまりは、子供っぽいと言う比喩ではなくそのままなのである。
「まったくね。でも薫。そんなこと言ってると、また、楓におばさん扱いされるわよ」
「明子、あなたまでそう言うことを言うのね」
 しまったという表情をする明子だが、どちらからともなく笑いがこぼれる。
「何笑ってるの〜?」
「楓のことに決まってるじゃん」
 戻ってくる早々、再び火花を散らす勢いで睨み合いを始めてしまうのだ、薫ではなくとも、小言を言いたくなろうというものである。
「あ〜ら。また始まった」
「ふぁえでが、わふい」
「さふぉみの、ふぉうだよ」
 席に着くや否や、豪快に食べ始める二人なのだが、薫の眉がひくついている事に気が付かないまま、二人はしばし食べながら喋り続ける。
「楓に聖美……」
 二人は明子に視線を向け、人差し指の向けられた方向に顔を巡らせると……。
「……あ、え〜、か、薫?」
「……いや、だからね。」
 しどろもどろになる楓と聖美。結局、おとなしく残りをゆっくりと食べる事にしたようだ。
 薫が何かを語った訳ではない。明らかに、その表情から危険を察知した結果である。
 そして、楓と聖美が満足した頃……。
「楓。今のところは、痛みはないみたいね」
「うん、ないよ。どったの?」
 先ほどとは打って変わった薫に戸惑う楓。
「うふっ。薫の心配性が始まったわね。……あっ。そうよね。楓の一番の不思議だものね」
 薫の怒りを避けるように楓を話題にする明子。どうやら、明子であっても薫の怒りは怖いようである。
「あによ、その言い方わぁ」
「あら、だってそうじゃない。只でさえ楓が不思議なのに、その中で一番の不思議でしょ。何処にも異常がないんだから、ね」
「ね、ってねぇ……。まぁ、確かにそうだけどぉ。けど、楓ちゃんはまっとうな人なんだよ」
 その言葉に、聖美が反応を示してにやつくと、センサーでも付けているかの如くに、素早く反応して楓が睨み返している。
 その光景に、結局、頭を痛める薫と明子であった。
「この二人を、引き合わせなければ良かったかしら」
「薫がいなくても、何れ出会ったんじゃない? 類友だからねぇ」
 明子の最後の部分に反応を示す二人。
「あらやだ」
「ほら、二人共いい加減にしなさい。やけ食いは終わったんでしょ、帰るわよ」
 薫と明子が徐に席を立った事に、慌てた楓と聖美も後に続いた。



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 空には、薄い雲が広がっており、強い日差しを少しだけ遮っている。
 日差しが弱くなっている分、昨日から持ち越した暑さも和らいでる筈なのだが、気温が劇的に下がっている訳でもない。
 暑さもそこそこの屋外だが、人っ子一人見当たらない。
 八:三〇を回ったところである。この時間であれば、登校している学生の殆どは、講義を受けているか、あるいは実験を行っている筈である……。
「教授。まだかなぁ」
 講義の開始が少々遅れているようである。
 周りには、この講義を受講する生徒以外が見当たらないことからも、遅れていることが伺える。
 ここは、コの字型の建物の内の一つで、学生会館寄りに建っている第一講義棟の三階にあるコンパートメントである。
「明子ぉ。講義間違えてないよね?」
 その一つに楓と明子がいた。
 コンパートメントとは、学生が講義を受けるための個室(あるいは小部屋)で、概ね、二人〜一〇人ほどの部屋になっている。
 一つのコンパートメントの人数が少なく設定されているのは、人数に依存することなく多くの講義を同時に行えるようしているためである。
 コンパートメントが小さいにも関わらず、他の受講生が見えているのは、ホロ・ストリームが映し出されているからである。
 ホロ・ストリームとは、3D画像(ホログラムと呼ばれている画像)のデータを束ね、コンパートメント間でほぼリアルタイムに送受信を行って表示することである。これにより立体感のある映像が、可能な限りタイムラグなしに見ることが出来る訳である。
「ん? その筈だけど……」
 楓の右隣にいる明子は、間にあるコンソールを操作して現在選択している講義の確認をした。
「……うん。大丈夫、間違いないわよ」
「ん?」
「どうしたの?」
「あ。何でもない。大丈夫だよ〜」
「いや。遅れて済まない。では、講義を始める」
 そうこうしていると講師教授が映し出された。
 講師教授とは、自分の研究もさることながら、講義を行っている教授のことを指しており、従来の教授を細分化した内の一つである。
 さて、講師教授が今日の講義のあらましの説明を始めるのだが、この講師教授の説明は長く、終わる頃には三〇分ほどが過ぎていた。
 それでも受講生達は慣れたもので、誰一人として居眠りはしていなかった。
 講義は、講師教授の話だけではなく、現物のバーチャル映像や講師教授手作りの3D映像なども含まれ、手近なところでそれらを見ることが出来るのが特徴である。
 更に三〇分が過ぎた頃……。
──ん? き、気のせいだよねぇ。
 楓が体の何処かに違和感を覚え始めたようである。
──……くっ! ま、またぁ。
──む、胸が……痛い。
 胸に手を当てる楓だが、隣りにいる明子は、講義に集中しておりまだ気が付いていない。
「あ……き……こ……」
 か細い声で隣の友人を呼ぶが、講師教授の声でその声は届かなかった。
「くっ!」
 楓は、講義中であることに気を遣って声を押し殺していたのだが、とうとう耐えきれず、右手でなんとか明子の左肩を掴んだ。
 びくっと震える明子は、反射的に捕まれた方向に顔を巡らす。
「か、楓」
 とっさに、捕まれたまま左手でコンソールを操作する。
「ふぅ。とりあえず、こっちの映像は数分前に固定が出来たわ」
 このコンパートメントからの送信を、過去の映像で固定したようである。流石に、この状態の楓を皆に見せるのは忍びなかったからであろう。
「あ、あき……こ」
 楓の苦悶の表情に、かなりの痛みが襲っていることが分かった。
「何処が痛いの?」
 その問いに、楓は押さえている左手で服をきつく掴む。
「そう。胸が痛いのね」
 明子はそう言いながら、コンソールを再び操作する。
「ん? ちょっと済まない。待っていてくれ」
 講義中の講師教授の動作が一瞬止まったが、再び動き出した。
「どうした?」
「あ、上埜教授。楓がまた痛みを……」
 上埜と呼ばれた講師教授のホロ・ストリームが、明子の傍にやって来る。
「ん〜。ちょっと酷そうだな」
「教授。医療室に運んだ方が良いかもしれません」
 明子の話に、上埜教授は唸り声を上げるだけだった。
「教授! 講義の方も中断し続けるのはどうかと思うんですが?」
 その対応の遅さに、痺れを切らせた明子が少々きつい事を口走る。
 講義の中断もさることながら、楓の事が心配でしょうがないと言ったところであろう。
「ふむ、そうだな。
 ……よし、医療室には連絡した。押っつけ担架が来るだろう。ここは使用中のままにしておく。藤本君が落ち着いたら荷物を取りに来なさい」
「はい」
 明子達から離れた上埜講師教授が、講義を再開したのがコンパートメントに映し出された。待たせている状態を解除したようである。
 しばらくして、看護師と担架が到着。か細い呻き声を上げる楓を乗せ、傍らにはうっすらと涙を浮かべた明子を伴って、担架はコンパートメントを出て行く。

     *

「先生。楓はどうですか?」
 学生会館の一階には医療室があり、楓はその中の内科に運ばれていた。
 診療ベッドが並ぶ中程にあるデスク。そのデスクを挟んで話をしている。
 既に一時限目は終わっている。
 楓が診察をしてる間、明子は、コンパートメントの荷物を取りに戻り、使用中を解除して戻ってきたところである。
「診察結果から言えば、何処にも異常は見つからないわね」
 内科の女医はそう答える。が、この答えは、今までと何ら変わりはなかった。これまでの何れの時も、楓の症状に対する原因は疎か、異常な箇所すら見つかったことがないのである。
「それでも、精神的なモノが原因ではないことは確かね」
 つまりは原因不明の奇病、と言うことになる。
 二二世紀になったとは言え、医療技術が進歩しているとは言え、まだまだ、人類が解明できていない事柄がある、と言うことなのかも知れない。
 明子が説明を受け終わった頃に、走り込んできた者がいた。
「明子! はぁはぁ。か、楓は!」
 薫と聖美である。一時限目が終わるのを見計らって、明子が連絡を入れていた。
「明子ぉ。楓は、大丈夫だよね?」
 正に血相を変えて飛び込んできたのだ、二人の楓に対する心配の度合いが伺える。
 明子は、視線を向かって右端に向け……。
「えぇ。先生の話だと、いつもと同じだそうよ」
「……そ、そう……なんだ。ふぅ〜」
 聖美は、それで落ち着いたようである、が……。
「先生。何故、原因が掴めないのですか?」
 落ち着いているのかいないのか、薫は女医に詰め寄る。
「本藤さん、だったかしら? 落ち着いて。あなたが、藤本さんのことを本当に心配しているのはよく分かっています。
 今日も診てみましたが、痛む部位に異常は見つからなかった。もうしばらくすると、その痛みすら消えてしまう。それが何を意味するのか、今のところ分からないの。ごめんなさい」
 その、女医の説明とも謝罪とも取れる言葉に、薫ですら二の句が継げなかった。
 しばしの沈黙の後……。
「薫」
「何かしら?」
「私が楓を送っていくから、薫は講義に出てね」
「明子はルートが違うでしょ?」
 その薫の表情は、まるで母親のそれであるが、明子もまた、薫とは似て非なる想いがあった。
 お互いの意志が、想いが、見つめ合う内に流れ込み理解していく。
「……分かったわ。明子にまかせるわ」
「え?」
 驚いたのは聖美であった。
「何を驚いているのかしら?」
「だって、ここんとこ、何が何でも楓! くらいだったからぁ……」
 聖美の言う通りで、この所の薫は楓に痛みが発症すると、まるで自分のことであるかの如くに接していたからである。
 明子も表には出していなかったようだが、同じだったと言うことであろう。そう、同じであることを理解したからこそ、薫は明子に譲ったのだ。
「聖美も心配しているのよね?」
「な、な、何を……。し、心配なんて……。……喧嘩相手だから……」
 聖美とてその想いはあると薫は感じていた。しかし、聖美はあまりにも楓に近い感覚、感性を持っているからこそ、お互いにぶつかり合うことになるのだろうとも思っていた。
「うふ」
 三人が落ち着いた頃。
「そろそろ二時限目の時間よ。送っていく人以外は、講義に行ってらっしゃい」
 女医の言葉に、薫と聖美は医療室を後にする。
 二人の退出後しばらくして、右奥の診療ベッドから微かな声が聞こえた。カーテンを開けると、痛みが和らいだのか、楓が押し殺した声で泣いていた。
「お目覚め?」
「……はい」
 多少の涙声で答える楓。
「痛みは?」
「……大分治まりました」
「そう、良かったわ。もう一回スキャンしておきましょう」
 女医は、診療ベッドの傍らのコンソールを操作して全身スキャンを始める。
 スキャンが終わると……。
「特に異常はないわよ。でも、ゆっくり帰るのよ。家に帰り着くまでは、念のために走らないこと。良いわね」
 楓は、ベッドから立ち上がろうとすると蹌踉めいた。
「あん。楓、まだどこか痛むの?」
「ううん。大丈夫って言うか、疲れたかな?」
「だから、ゆっくり帰るのよ」
 そう釘を刺された二人は、女医に礼を述べて医療室を後にする。

     *

「明子ぉ。ありがとね、そいでごめんね」
「何を言ってるの、友達じゃないのよ。それにね……」
 含みがあるのか、言いづらいことなのか、言葉を切った明子。
 言葉少なく医療室を後にした二人は、隣接した学校事務棟の地階、その外に当たる幾分高いこの場所、グランド・バスの停車場までやってきていた。
 グランド・バスとは、路線バスと鉄道の置き換わった交通機関である。
 住宅ブロックを起点として、目的地が概ね企業ブロックと商業ブロックに決まっているため、乗り換えを減らしている。
 停車場は、時間が時間であるだけに二人以外はおらず、昼間とは言え静かな地階である。一人きりであれば、少々遠慮したいところであるかも知れない。
 そんな場所だからなのか、続きを聞きたいからなのか……。
「それに?」
 と、楓の口をついて出た言葉がこれであった。
 それでもまだ続きを語らない明子。その表情は、いつものそれと言うよりは、単純に言いづらいように見受けられた。
「あによぉ。そこで止めちゃうと、聞きたいよぉ〜」
 まるでだだっ子のように、明子を揺する楓。
「分かったわよ。揺すらないでぇ」
 ピタリと止める楓。
「友達って言ったけど、どちらかというと、姉として、って言うのが本当かな?」
──う〜。お姉さんかぁ。いいなぁ。えへっ。
 楓に姉妹はいない。だからこその憧れがあるのだろう。
──あ〜。でもでも、同い年の姉というのはどうなんだろうか?
「あう〜」
「どうしたの? いや、だった?」
 ”ブンブン”と音がしそうなほど首を横に振る楓。
「じゃぁなぁに?」
「いやぁ。同い年の姉と、更に母を持つってのは、どんなもんだろうかと……」
 その回答に、明子は吹き出して笑いだす。それに釣られて楓も笑い出す。
 ブーン。
 キュキュ。
 プシュー。
「鵜野森CB経由、向ヶ丘第八住宅行きです」
「楓、乗るわよ」
「うん」
 二人を乗せたグランド・バスが学校を後にする。



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 どんより、とまではいってはいないものの、やや厚い雲に覆われた空。ともすれば、今にも泣き出しそうな空ではある。
 日差しが遮られている事から、前日より幾分か低い気温ではあるが……。
「日が出てない分、ましだけど。あちぃ」
「聖美。言葉遣いが悪いわよ」
「え〜。いいじゃん」
 聖美は暑がりなのであろうが、言葉遣いに関しては、これまでの言動から推察するに、口癖になっているようである。
 確かに、日差しが雲に遮られて三〇度を下回ったとは言え、それほど下がってはいないのだ、暑い事に変わりはない。
「木立の中だから、まだましだよ」
 今はお昼の休憩時間に入っており、楓達四人は昼食前に木立の中で携帯座布団を広げ、腰を下ろして各々にくつろいでいるところのようである。
 携帯座布団とは、屋外で使用することを主な目的とし、携行する際の最小サイズはクレジットカード型で、他に数種類存在する。この小ささであるが故に持ち運びが楽に出来、広げると小さめの座布団サイズ(四〇センチメートル四方程)になる優れものである。また、広げた際に膨らんでクッション性を上げ、座り心地が良くなるようになっている。
「それはそうと、楓。もう大丈夫なのかしら?」
「ほっ?」
「昨日の痛みよ」
「おっと、そう言えばそうだった。
 えっと〜。……昨日は心配させてごめん。そいで、ありがとう。でも、もう大丈夫だよ」
「そう。良かったわ」
「昨日は、じゃない。昨日もだって」
「あによ〜」
 相変わらず楓の事を心配している薫である。楓の痛みが気がかりでしょうがないと言ったところであろうか。とは言え、原因すら特定できていないのだ。端が心配したところで何も出来ない事は、薫とて重々承知している筈である。
「あ〜あ。楓ちゃんも出たかったよ」
 溜息とも受け取れる言葉を、心底残念そうに漏らす楓。一体、何に出たかったのか。
「怪しい雲行きなのに、楓も怪しい雲行きね」
「あによぉ〜、薫。ひっど〜い。楓ちゃんは、天気予報じゃないよ」
「ぷぷっ」
 楓の言葉に、吹きだした聖美。
 聖美ではなくとも、楓の言いようには吹き出したくもなろう。どの辺りが天気予報なのか……。
「聖美。そこ、笑うとこ?」
「え〜。だって、怪しい雲行きが天気予報って。おかしいじゃん」
「ふえっ?」
 何がおかしいのかと、訝しんでいる楓。
 薫が、天候と楓の状態を結びつけたところから来ているのであろう。だが、受けを狙ったつもりではないのだろうが、もう少しセンスが欲しいところである。
「それで。何に出たかったのかしら?」
「へっ?」
 聖美と言い合っているところを、本題に引き戻された楓は、素っ頓狂な声を出した。
「何に出たかったのかよ」
 明子が、きちんと聞いていなかった楓にフォローを入れる。
 この辺り、気配りの効く明子ではあるのだが、その裏には、楓の答えが聞きたいという思惑が見え隠れしている。
「明子。あんがと。
 ……え〜と。入学式だよ」
「はぁ?」
「あによ、聖美」
 素っ頓狂な声を上げたのは聖美で、即座に反応したのは楓である。また良からぬことを言われる前に釘を刺した、と言ったところであろうか。
「そう」
「あっ、だって今日。四月七日は、新一年生の入学式だよ」
「えぇ、そうね」
「祝ってあげないと」
「なるほど……。だけれども、その役割は新二年生と新四年生が受け持っているのよ。楓も私達も、去年がその年だった筈よね」
「うっ」
 専課学校での入学式には、新二年生と新四年生が在校生を代表して、新一年生を迎えるのが慣例となっている。よって、それ以外の学年の生徒は通常通りの講義を受ける事になっていて、お休みにはならないのである。
「はは〜ん。さては楓は、抗議サボりたいんだ」
「……あ、あんてこと言うかな聖美は。あ、あたしは、サボりたい訳じゃ……」
「そうなのね」
「ひっ」
 楓は、言葉を最後まで言わせてもらえず、更に、薫の鋭い視線を浴びた。
「うっ。えっと。そ、それだけじゃなくて、新一年生も見たかったし。……あっ」
 結局、全てではないにせよ、それも口実にしたかった事が判明した訳である。
「やはり、そうだったのね……」
「な〜んだ、楓も一緒じゃん。……あっ」
 二人揃って言わなくても良い事を口走ってしまう。いつもの事と言えばそれまでであるが、やはりこの二人、上級生の自覚が足りていないのかもしれない。
「あ、え〜と、ね。講義の時間、まだかなぁ」
「そ、そだね」
「お昼休みは始まったばかりよ。お昼もまだ食べてないのに。二人共、言い訳が大変ね」
 涼しい顔で楓と聖美、それに薫の会話を楽しんでいる明子であった。
「ちょっと、明子。ずっこいよ」
「そうね。これでは、私が二人をいじめているように見られてしまうわよ」
「そうだそうだ! 明子が悪い」
 どさくさに紛れて、聖美がもの凄い事を口走った。
 それを聞き逃すほど明子は甘くなく……。
「ちょっと、聖美。今なんて言ったの?」
「えっ? あははは」
 笑ってがまかす聖美だが……。
「聖美のその曲がった性根、叩き直さないといけないわね」
「ちょ、ちょっと。明子、ごめん。悪かったって、ついうっかり……」
 びくりと反応した聖美は、恐る恐る別の方に視線を巡らせると……。
「ひぃ〜」
「薫ぃ。やり過ぎだってばぁ。明子も」
 いつにない明子の凄みに、薫の刺すような鋭い視線、その双方の攻めにより震えが止まらなくなっている聖美であった。
「あら。聖美ぃ、ごめんねぇ。やり過ぎちゃったわ」
「しょうがないわね。今日の所はこの辺にしておきましょう」
 この状況にも関わらず、相変わらず厳しい薫である。
「聖美。聖美。返ってきてよ」
 お灸が効きすぎた聖美は、薫の視線が治まっても尚、青ざめた顔をして両手で膝を抱えたまま震えていた。
「そろそろ、学生会館に行くわよ」
「え〜。聖美、置いてっちゃうの」
「まだ、早くない?」
 等などと会話を始めた三人。
「今日の限定メニュー、食べるんでしょ、楓」
「そ、そだった。食べるよ。聖美もだよね」
 ガサッ。っと音を立てて何かが動いた。
「食べる!」
「聖美が、復活した」
「ふっ」
「あっ、薫ぃ」
 薫の的確な言葉によって、震え、怯えていた聖美が立ち上がっていた。見事に復活を果たしたのである。
「行こう!」
「あっ、聖美。待ってよぉ」
 聖美の号令で、座ったままでいた三人も立ち上がって歩き出した。



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 既に、天然のサウナと化した中庭を走っている学生がいた。
 楓が、講義中に痛みで倒れてから二日が過ぎさり、三日目……。
 二時限目が開始される一〇:三〇に大分迫った時刻であり慌てているのだろう。目指しているのは、どうやら、サイコロが上方に引っ張られたような外観の建物のようである。
 ATSUBB専課学校の実験棟のことである。
 この学校では実験を行う科目が少なく、主に利用しているのは化学科で、他には、学校研究教授が常駐して、研究に没頭している場所でもある。
 仮に、爆発を伴う事態が起こったとしても、隣接した部屋は言うに及ばず外部への影響が軽微になるよう、建物は一番頑丈に造られている。
「はぁはぁ。……ちょ、ちょっと……。はぁはぁ」
「ま……はぁはぁ。……間に合ったぁ」
「はぁはぁ。か、か……え……で……」
「はぁ〜。……あに?」
 息を切らせて走っていたのは楓と明子であった。大方、四人での世間話が盛り上がり、時間を忘れていたのであろう。
 楓は、割合と楽に呼吸が平常時に戻ったようであるが、明子の方はまだのようである。楓がタフなのか、あるいは、明子が苦手なだけなのか……。
「明子ぉ。へばったぁ? 運動不足だねぇ。あはは」
「もう、地下が……繋がって……いれば、暑さが……ないの……よねぇ」
 半分を暑さの所為にする明子であるが、確かに、暑い中の運動は結構こたえるものである。
 この実験棟が地下で繋がっていないのは、実験棟での惨事を他に広げないためであり、必要最低限である機器や設備などを搬入するためにしか繋がっていないのである。
 キュム、キュム。
 ゴムと化粧床の擦れる音が聞こえてくる。
「ほう。誰が騒いでいるのかと思えば、君か」
「枯下さん……」
 和やかな会話に割って入ったのは、枯下貴人である。
 貴人の登場に、楓の瞳に怯えとも敵意ともつかぬ色が出る。
「ふむ。今日は君か……」
 ワンテンポ遅れて、明子が楓の前に出る。
 何とも不適、且つ、意地の悪い物言いをする貴人である。これが、貴人流の人との接し方であるのか。
「今日は何でしょうか? 何かありましたか?」
 明子の目が若干細められる。
 のんびりとした、ほのぼのとした性格ではあるが、いざとなればこういった事も出来るようだ。とは言え、楓が傍にいる為、こうならざる終えないと言った方がよいのかも知れない。
「いや。何もないがね」
 明子の後ろにいる楓に視線を向ける。しかし、当の楓は、何とも言い難い表情でその視線を受け止めている。
 怯え、というよりは、絡んでくる事への疑問、と言った方が良いのかも知れないのだが、今一つはっきりしない。言えることは、脅えてはいないと言うこと。いつものように、自然体で立っているだけだということである。
「……何だ。何のつもりだ!」
 その自然体が気に入らなかったのか、眼差しが耐えられなかったのか。目を見開き、顔を強張らせ、怒鳴る。脅えさせるためなのか……。
「……こ、今度は何ですか」
 明子が脅えている。
 いきなり怒鳴られれば、誰であれ驚くであろう。その驚き、怯えを、明子は懸命に耐えている。幾分か体を震わせながら、言葉を発して必死に耐えている事からもそれが伺える。
 そんな明子の右腕に、小さな温もりが感じられた。
「枯下さん。何が気に入らない……。くっ!」
 楓が貴人に何か言おうとするも、痛みに呻き、明子に触れていた手に力が入った。
「か、楓!」
 ズルズルと崩れる楓を何とか支える明子。それを見ていた貴人は……。
「フン。またか。そのショーも、そろそろ見飽きたな」
 人の痛みが分からない人は、その場にいたとしても手を差し伸べることはしないのであろう。関わりたくないからなのかもしれない……。
 どんなに時代が進んでも、そう言う輩は、何処かにいるのかもしれない。
「ショー……、ですって……」
 その言葉に、勢いに、貴人の顔から笑みが消える……。
「見なさい! どれほどの痛みが、今、楓を襲っているのか。あなたには分からないの!」
 明子が貴人の言葉に爆発した。
 言葉に臆したのか、貴人の足が後ろに出る。
 明子の傍らには、苦痛にゆがんだ顔をした楓が腹部を抱えて蹲っている。両手で痛む腹部を押さえてはいるが、何ほど役に立っているのか。
 明子は楓に言葉をかけながら、時折貴人を睨み上げていた。その視線に、もはや貴人は動くことすら出来ないようであった。表情は平静を装ってはいるが、強ばっているようにも見え、口元が幾分引きつっているように見える。
 貴人の中でも、葛藤があるのであろうか。
「し、知らんね」
 貴人の口をついて出た言葉……。
 この状況から逃げ出したい。そう言う想いがあるのかも知れない。
 コツ。コツ。
 この緊張感の中、階段から響く靴音がした。
「あら? 何を……。お兄さん」
 声をかけてきたのは、貴人を兄と呼ぶ女性。
 貴人のいとこで、枯下清泉、二〇歳である。
 目は大きめで、ぱっちりしている。鼻は小振りだが、鼻筋は通っている。輪郭は細面の顔立ちである。
 軽くウェーブのかかった、ふわりとしたセミロングで、色は黒である。
 本日の服装はと言えば、パステルブルーに白の刺繍の入ったワンピース。白いローヒールのパンプスを履いている。
 明子や薫とは違い、所謂、お嬢様といった佇まいを持っている女性である。
「お兄さん、何をやって……」
 口元を押さえながら、清泉は楓達に駆け寄った。
「ちょっとお兄さん。何故、介抱しないの」
「フン」
 緊張が解けたのか、踵を返して歩き去っていく。それを見詰める明子と清泉がその場に残された。
「……うっ!」
 楓の呻き声に我に返る二人だが、様子を見ようにも、この実験棟の廊下には長いすなど何もなく、どうしたものかと迷っている。
「う〜。……く〜」
「もう、大丈夫そう」
 明子は、楓の呻き声に痛みが和らいだことが分って告げる。傍らにいる清泉が、ホッとしたように表情を和らげる。
「……何か持病でもおありですか?」
 貴人と何があったのか、何があるのか。今の清泉に理由を聞こうなどと言う考えは浮かばなかった。目の前に、苦しんでいる人がいるのだから……。
「いえ、持病と言うか……。なんと言えば良いか……」
 少々歯切れが悪い。それは、持病ではあるのだが、腹部が直接の患部ではないので致し方がない。
「でも、助かりました。……あの」
「はい?」
 遠慮がちな明子の問いかけに、少々戸惑ったような表情で答える清泉。
「あの、ご兄妹で同じ学校にいらっしゃるんですね」
「あ、いえ。実の兄妹ではなく、いとこなんですけれど、ずっと一緒に育ってきたようなものなので、つい、兄と呼んでしまいます。
 それと、同じ科なのは家系、なのかもしれないですね。後は……。私もお兄さんも、化学が好きだからかしら?」
「……あ……き……こ。……う〜。」
「楓、大丈夫?」
「……いたっ」
「まだ痛むの?」
「……ちょっ……とね」
 痛みを押して、立ち上がろうとする楓を支える明子。
「無理をしてはいけませんよ」
 清泉の気遣いに、楓は笑みを返して答える。その後、明子が礼を述べ、若干遅れたがラボへと楓の覚束ない足取りにふらつきながら向かって行った。

     *

 もぐもぐ。
 ごくん。
「はぁ。もう!」
 親の敵とでも言わんばかりに、ケーキを荒々しく食べている女性がいた。
「まっふぁく。……わにかひらね」
 ここは、鵜野森CBの一角にある、夕暮れ時に限定でケーキバイキングをしている店である。
 ごくん。
 ぱく。
「あの、……ふぉもふぉっれ……おとふぉは」
 ごくん。
「明子ぉ。それは、ちょっろ……」
 ぱくぱく。
「ひろ……いんじゃ」
 ごくん。
 原因は言わずと知れた、昼間に出会った枯下貴人のことである。
 いつもの如く、楓の怒りは小さく、守ろうとした明子の方がかなり怒っている様子。
 苦痛に襲われていた楓は、直(じか)に話をしておらず、もっぱら明子が貴人と話をしていたのだから仕方がないとは言え、楓の怒りが小さすぎるのかも知れない。
 ごくごく。
「楓。あなたのことなのよ? もう、暢気を通り越してるわね」
 ごくごくごく。
「あ。酷い。楓ちゃんだってねぇ、ちゃんと考えてるんだからね!」
 論点がずれ始めている。これもまたいつものことである。
 何故そうなるのかと言えば、楓に向けられている嫌みに対して、楓自身の反応が小さいためであろう。嫌みに対する怒りが全くない、とは言えないようなのだが、相手の行為に、何か理由があるのかも知れないと考えている節がある。結果として、意見が食い違った挙げ句に論点がずれてしまい、最終的にとんちんかんな会話、つまりは、只の言い合いになってしまっている。
「薫。ちょっと聞いてよ。あの枯下がね”このショーも、見飽きた”ですって。何様の積もりよ!」
 ぱく。
 もぐもぐ。
 ごくん。
「それを、楓は、何よ!」
 ブスッ。
 薫に説明しながら怒りがこみ上げたようで、ケーキに八つ当たりしていた。
「あ〜。明子ったら。ケーキが……」
「何よ、聖美! 文句でもあるの?」
 聖美は盛大に首を振る。どうやら明子の目つきが怖かったからのようである。
「枯下さんのことは、どうしようもないのかも知れないわね」
 何処か、あきらめにも似た薫の言いようである。
 貴人は、何故これ程までに突っかかってくるのか。それは本人にしか分からないこと。そう言いたいのかも知れない。
「それでも、助け船があったのでしょ?」
「えぇ」
 ぱく。
 もぐ、もぐ。
 ごくん。
「枯下さんのいとこよ」
「いとこが……」
「化学科だって言ってたわね。楓は、この辺りは覚えてるの?」
 ぱくぱく。
 もぐもぐもぐ。
「わに?」
「あぁ。だめだわ」
 呆れた明子が項垂れる。
 ごくん。
「あにがだめだって言うの! 楓ちゃんはしっかりしているよ」
 その言葉に、薫と明子が再びため息をつきながら項垂れる。
「分かったから、どうなの?」
「ほへ?」
「はぁ。それだから、だめだと言っているのよぉ」
「楓。ケーキを食べていなさい」
「ほ〜い」
 ぱくぱく。
 もぐもぐ。
 薫に言われた楓は、再びケーキと格闘に入る。
「その方の名前は?」
「……あら。聞くのを忘れていた!」
「うふふ。楓のことは言えないわね」
「あ、あの時は、そんな余裕がなかったのよ、きっと」
 薫と明子だけに笑いがこぼれる。
 ケーキを頬張りならが傍観する楓と、結果、蚊帳の外に置かれた聖美は、ケーキを無心に頬張っていた。
 しばし後(のち)、楓と明子の手が止まった頃を見計らって……。
「楓と明子。やけ食いはもう良いかしら?」
 頷く二人。
「それなら、最後のお茶をしましょ」
 そう言うや、楓と聖美が我先に走り出す。
 いつの間にか、全ての怒りが静まっていく。
 ゆったりした足取りで、薫、明子もドリンクバーへと足を向ける。

〜第一章 「嫌み」 完
縦書きで執筆しているため、漢数字を使用しておりますことご理解ください。
下記、名称をクリックすると詳細を展開します。
ふじもと かえで
藤本 楓
西暦2108年12月25日生まれ・身長/体重:165㎝/50㎏
職業:専課学校 基底学部化学科5年生

 藤本家の長女で、両親と三人暮らし。
 性格は、子供そのものと言える性格である。しかし、それは、喜怒哀楽全てを表現するためであり、20歳として知識、知能が低い訳ではない。また、人見知りもしないため、誰とでも仲良くなれる。
 食事、食べ物の好き嫌いはないが、ケーキなどの甘い物が好物。
ほんどう かおり
本藤 薫
西暦2108年12月25日生まれ。身長/体重:167㎝/50㎏
職業:専課学校 基底学部物理科5年生

 本藤家の長女で、両親と三人暮らし。
 性格は、母親のように優しく、時には厳しく、しかし、本質としては優しさを多分に持ち合わせている。楓にとっては、無くてはならない親友になっている。
 食事、食べ物の好き嫌いはないが、ケーキなどの甘い物が好物。
いわま さとみ
岩間 聖美
西暦2108年08月13日生まれ。身長/体重:170㎝/55㎏
職業:専課学校 基底学部物理科5年生

 両親、姉と四人暮らし。
 性格は、子供っぽい所もあるが、二〇歳に何とか相応しい女性だが、楓に似た所もあり、類は友を呼ぶ、を表した友人の一人。
 嫌いな食べ物は、肉だが、当然、甘い食べ物には目がない。
やまだ あきこ
山田 明子
西暦2108年06月21日生まれ。身長/体重:172㎝/58㎏
職業:専課学校 基底学部化学科5年生

 両親、姉弟と五人暮らし。
 性格は、長女であるだけに、しっかり者で、世話好き。だが、おっとりしているわけではない。その辺は、弟を持つが故なのかも知れない。
 女性としては珍しく、見た目からは創造しがたいが、どっしりした印象を受ける。薫以外の姉役、と言える。やはり、楓の危うさを見ていられないと言ったところか。
 好き嫌いはない。その中で一番の好物は、和菓子。
こもと たかと
枯下 貴人
西暦2104年11月20日生まれ・身長/体重:175.4㎝/65㎏
職業:専課学校 化学科の研究員

 両親、姉と四人暮らし。
 枯下家の血筋の所為か、物事、事象を理論的に考える事が多く、事象に対しては、原因が必ずある、そこから考える。
 故に、冷徹、と言われるほど冷たい態度を取る。
 刺身が大好物であるが、煮魚が嫌い。
こもと きよみ
枯下 清泉
西暦2107年12月15日生まれ・身長/体重:170.2㎝/55㎏
職業:専課学校 基底学部化学科6年生

 両親と三人暮らし。
 枯下家の血筋なのであろう、化学畑に興味を示し、今に至る。
 どちらかと言えば内気な性格であり、また、思いやりも持っているためか、自分の主張を最後まで貫くことが出来ない。
 野菜料理が好きで、鶏の皮が嫌いな食べ物である。
うえの ひろよし
上埜 弘良
西暦2072年10月22日生まれ・身長/体重:175㎝/60㎏
職業:専課学校 化学科の研究講師教授

 妻、子供二人の四人家族で暮らしている。
 性格は、本来は厳しい優しさ持っているが、考え方などは子供のままと言える。但し、研究のこととなると、かなり厳しく指導してしまう。
 講義中も含めた実験では、生徒や研究員が成功するや、子供のように、歓喜のあまり乱舞しているように見えるほど喜ぶ。とは言え、冗談などは好き。
かんこうえつえりあ
関甲越エリア
 関東甲信越を短縮したエリアの名称。
 東西は千葉・神奈川から新潟、南北は群馬・栃木から長野・静岡の一部まであるエリア。
 地理的中心地を起点に同心円を描いて交通ルートが確立されている。
 住居表示は従来のままであるが、使用することも可能。
あつぎびーびー
厚木BB
 厚木とは、神奈川県の中央部にある地名。
 楓達が通う学校が含まれ、関甲越エリアにある企業地区の一つ。

 中小企業から大規模企業まで様々。
うのもりしーびー
鵜野森CB
 鵜野森とは、神奈川県相模原市にあり、東京都町田市との境にある地名。
 楓達が通学の途中にあり、関甲越エリアにある商業地区の一つ。

 飲食から衣料品などまでの店や複合施設、娯楽施設、宿泊施設まで揃っている。
あつびーびーせんかがっこう
ATSUBB専課学校
 楓と薫が通う学校で、場所は、関甲越エリア、神奈川、厚木にある。
 基底学部として、化学、物理学、自然の学科を持つ専課学校。
 建物としては、講義棟が3つ、実験棟、学生会館、学校事務棟が各々1つがある。
けいたいざぶとん
携帯座布団
 コンパクト収納型の携帯できる座布団である。日本発祥の製品であり、世界中で販売されている。
 コンパクトに携帯できるが、使用時は小さめの座布団サイズに広がり、クッション性もそこそこある。広げた際は、概ねどのサイズの物でも40㎝四方程になる。
 サイズは、カードサイズ、iHandサイズ(ハンディ・タイプ)等がある。
えりあ
エリア
 道州制を拡張改定した考え方で、太平洋側から日本海側を一纏めにしている。
 道州制の場合は、どうしても東京を中心に考えがちで、周辺の過疎化を避けられない弱点があったため、新たに提唱された思想。
 大動脈を地理的中心線に置くことができ、分散にも適している。
せんかがっこう
専課学校
 専門課程を学ぶ学校を指す。
 21世紀の大学、専門学校が置き換わった物と考えてよい。
 尚、入学年齢は21世紀の高校と同じ。よって、高校以上と言うことになる。
いりょうしつ
医療室
 専課学校の保健室は概ねこの施設。
 専門の学問を学ぶ上で、怪我、火傷等々学部によって緊急で治療が必要になることが希にある。
 そのため、それなりの設備が整えられていることから、保健室ではなく医療室となった。
びーびー
BB
 ”BB”は、Business Blockの略語で、企業を集中させたブロックになる。
 理由は、昔からあった共同開発を増やす狙い、若者を早い段階で社会に参加させる狙い、などにより、遠くより近くが良いであろうと言うことで、この配置を採っている。
 結果、集まった企業は、概ね専課学校の学部が中心となった。
しーびー
CB
 "CB"とは"Commerce Block"の略で、商業ブロックに当たる。
 この商業ブロックには、大きく二つの役割がある。
 一つ目は、大商業施設、または、ブロック全体が大型のショッピング・センターとしての役割。
 その中には、移動拠点としての宿泊施設も併設されている。
 二つ目は、交通ルートを纏めるターミナルとしての役割。
 交通ルートには、大きく三つ。
 エリア中心地とを結ぶルート。
 近隣の企業ブロック、住宅ブロックとを結ぶルート。
 その三つを纏めたターミナルの役割を担っている。
えるびー
LB
 "LB"とは"Life Block"の略で、居住ブロックに当たる。
 マンション、アパートの減少により、住宅地が大分変貌している。
 空き住宅地と一戸建て地区をまとめ、2階屋、3階屋が、高層の集合住宅に置き換わっている。
 日本では窮屈な住宅空間であったが、空き住宅地の恩恵に預かり、ゆとりある住宅空間を実現している。
 居住エリアには、必ず緑地公園が設けられ、心地よい生活を営めるようになっている。
だい?じゅうたく(こうそうしゅうごうじゅうたく)
第?住宅(高層集合住宅)
 高層集合住宅のことをさすが、マンション、アパートとは趣が少々違っている。
 従来の一戸建てを改装に積み重ねた高層住宅となる。
 一階建てから三階建てまであるが、二世帯住宅はない。
 地名+施工番号+住宅で呼ばれることが多い。



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