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楓の入院でバタバタした昨日、開けた本日であるが、幾分か疲れた表情をしている薫であった。
いつもより足取りが遅く、ともすればふらふらしているようにも見えたのである。更に、仕事場に着くも、向かいの建物を眺めてしまい、楓を心配しているようである。
――だめね。今は、依頼された事を成さなければね。
軽く頭を振った薫は、仕事場を開けて入っていくのであった。
実験室に入った薫は、「さて。途中になっていた手順をまとめないといけないわね」と、独り言のように呟くと紙を取って、楓の作業を思い出しながら、手順にまとめ始めるのであった。
一時間程たったであろうか、「ここから先は、どうすれば良いかしらね」と、書きかけの部分を終えた薫は、手付かずであった以降をどう纏めたものかと思案をせざる終えないことになったようである。
頃合いを見計らったかのように、「ビーボー。ビーボー」と音量は小さいながらも、実験室いっぱいに広がる緑色で点滅したのである。「誰か……。いえ、シクワンさんが来たようね。何かしらね」と、呟いて思案していた手を止めて、シクワンを迎えに出ていくのであった。
「今日は随意分と早いお越しですね」
「……薫さん。いじめないで下さい」
「いえ、そう言うつもりはないのだけれど。そうね。言い方が少々意地悪だったかしら。ひとまず、中にどうぞ」
いつも通りと言えば、いつも通りの薫ではあるのだが、シクワンにしてみれば、昨日の今日で心配なのかもしれない。
実験室内に入ったシクワンは、思わず「……楓さんがいないだけで、大分静かですね」と、呟いてしまったのであるが、薫は返答に困ったようである。
「……あっ、ごめんなさい。別に何かある訳では無く……」
薫に向けて言った訳ではないようであるが、薫が無反応であった事と、振り向いた時の薫の表情から、とっさに謝ってしまったようである。
「……ごめんなさい。何も、シクワンさんを責めるつもりはありません。只。楓がいないと、静かになるのだなと、改めて思ったまでです。ふふふふ」
薫の言いように、少し胸が痛むシクワンであり、入院している楓だけではなく、周りで心配する人も苦しんでいる事を理解したようである。
「それで、今日早く来た理由ですが、何かお手伝いできる事はありませんか?」
距離を置いている事を承知の上で、こう提案しているのだろうと理解した薫は、「今のところはないわね」と、返すにとどまったのである。
「予想でしかないのだけれど、楓がいない分、何をするにも時間がかかるでしょう。そちらが求める量に対する時間が不足するでしょう」
「……求める量に対する時間とは、どういった意味ですか?」
「そうね。もう少し分かりやすく言い直しましょう。何かを完成させるには、一定の時間が必要になるのだけれど。一日の時間が決まっている以上、完成する個数や量が決まる事になります。ここまでは分かりますか?」
「……むむむ。……それは、三時間かかる物であれば、八時間仕事をすると二つまでしか出来ない、と言う事で良いですか?」
「その通りですね。今の例を踏襲すると、一日三つ欲しいと言われても、二つしか出来ない。それは翌日で良い、と言う話になった場合、翌日は、一つ不足ではなく、二つ不足すると言う事になりますが、分かりますか?」
薫の説明に、楓と同じように、唸りを上げて必死に理解しようとしているのが覗える。
「……そうか! 一つ分を翌日に作ると言う事は、翌日分は一つしか作る事が出来ない。つまり翌日分は一つ不足する事になり、結果的に、二日間で必要な個数が二つ不足すると言う事になる。と言う事ですね。あっ、ですが。当日に途中まで作れば、翌日は辻褄が合いません?」
「そこに気が付きましたか」
「またですか?」
「いえ、そうではありませんよ。そこまで考えが行かない人もいますからね、素晴らしい事だと思います。んん。話を戻しますが、当日に途中まで作れる物であれば、と言う前提が必要になるのは、分かりますか?」
とうとう音を上げたのか、小首を傾げるシクワンであった。
「……そうですね。作り始めたら完成まで、止めてしまうと状態が変わってしまう物だとしたらどうですか?」
「止めてしまうと、状態が変わる? ……。あっ、色の原料は、一晩おくと沈殿(?)するんでしたっけ。なるほど、そう言った物の場合は、どうしても一日に作る事が出来る量は決まってしまう訳ですね」
薫の説明に、すごく納得したのであろう、腕組みをして頷いているのであったが、「ですが……。本当に必要なら、増えるから大丈夫です」と、薫には理解しがたい、いや、理解できない言葉が紡ぎ出され、「それは一体どう言う事ですか?」と、逆に質問する羽目になったようである。
「ですから、時間が本当に必要であれば、増えるんですよ」
「そんな事は……」
理解できない上に、理解しようがない事を言われた薫は、しばし沈黙するのであった。
「……今までの事を考えると、気味が悪い事ではあるのですが、何かしらが起こる事は分かりました。しかし……。ひとまずその話はおいておきましょう。まずは、楓のやり残した手順をまとめましょう。ですので、今のところは手伝って頂く事はありません」
「……そうですか。確かに、その辺りは、私が手を出せる事ではないようです。ですが、また来ますね」
少し寂しそうにしながら、シクワンは実験室を出て行くのであった。一方の薫は、シクワンの言葉を払うかのように軽く首を振って、再び手順を纏めにかかるのであった。
*
もぞもぞと蠢いているのは、ベッドで寝ている楓である。どうやら、目を覚ましたようである。「んっ」と声を漏らし、更に、「んーっ」と声を出しながら軽く伸びをしたようである。
「よっと。おぉ? おぉ~。え~と、何処だっけ? あっ、目が回る~。おっと」
上体を起こしたものの、目眩に襲われた楓は、なんとか前に上体を持っていったようで、後ろに倒れることはなかったのである。
「危ない危ない。後ろは危険だよ」
“はぁ”とため息をついた楓は、「だめだ。え~と、目を閉じれば大丈夫かな?」と呟きながら、目を閉じて起こした上体をベッドに戻すのであった。
目を開けた楓は、「あぁ、回ってる。カラフルな天井だぁ」と独りごちながら、上を見続けていたのであるが……。
「そうだ!」と手を打たんばかりの勢いで、現状を思い出したようである。
「うん。昨日、実験してて、試験管倒したんだった。で、目眩と色がおかしくなって、病院に入院したんだよねぇ。あぁ、でも暇だよぉ」
昨日の出来事を思い出しながらも、暇を持て余す楓である、どうしたものであろうか。
暇だと呟いた矢先に、コンコンとドアがノックされ、「はい、どうぞ」と返すのであった。
「起きましたね、失礼しますよ」
入ってきたのは、昨日の医者であった。多少期待でもしていたのであろう楓は、幾分かがっかりしてしまったようである。
「ん? 一番目が医者で申し訳ない、とは言え、面会時間はまだ始まっていないからね、もうしばらく待ってもらえますか? さて、診察ですが、皮膜を定着させないように、日に何度か目を洗浄しましょう」
「えっ? それだけ? 薬とかはなし?」
「その通り。この症状に合う薬はないですし、そもそも、皮膜が出来ているだけですからね、ゆっくりと皮膜を取りましょう。そうそう、一度に取ることは出来ませんよ、網膜を痛めてしまいますからね」
医者の先読みによって、楓は言おうとしたことを見透かされてしまったのであろう、開けようとした口を閉じて俯いてしまったのである。
「? はっはっはっはっ。先に言ってしまいましたか。そうですね、毎回洗浄に来ましょうか。任せると危険なようですからね」と、釘を刺されてしまう楓であった。
一通りの説明が終わると、目の検査を行う。「ふむ。定着してはいないようですね」と、続いて、目の洗浄へと進んでいくのであった。
更に、洗浄後の診察が終わると、「退院は何時ですか?」と問うも、「まだまだですよ」とだけ告げ、明確な日程は語らない医者である。当然、肩を落とす楓であった。
「気を落とさないで下さい。始まったばかりですからね。おっと、それから、余り目を擦らないようにして下さい、皮膜の定着が進みますからね。あー、それから、なるべく寝ているように、とは言ってもまだ、起き上がると目眩がありますかな、でも注意して下さい」と、びっくりするような内容をさらりと告げる医者であった。
戸を開けて出ようとした医者が、「そうそう、もうまもなく昼食の時間ですから、ちゃんと食べて下さいね」と医者に言われると、目を輝かせる楓がいたのである。
間を置かずノックされ、「何か言い忘れたかな?」と思いつつ「どうぞ」と返事をする楓であった。
戸が開くと入ってきたのは、医者ではなくシクワンであった。
「その。具合はどうですか?」
恐る恐ると言った様子で、質問するシクワンに、「んー。まだ、天井やら何やらが、カラフルに見えるよ。って、まぁさっき医者に昨日の今日だから、変わらないって言われた」と、ややふて腐れたように返す楓である。
「それはそうと、薫はどうしてた? 昨日すごい心配させたし」
「そうですね。昨日は随分心配してましたし、今日も、見舞いに来たい様子でしたが、色のことがありますから、今日は手順をまとめ上げると言ってました」
「そっかぁ。薫で大丈夫かなぁ」
「そうなんですよ。私もそう思い、手伝うと言ったんですが、断られまして」
「あぁ、薫は、ここをまだ信用してないみたいだしね。あたし以上に自分でなんとかしようとするタイプだからなぁ。でも、あれ、最後の方は一人だと無理っぽいし、どうかなぁ」
横になったまま、あれこれと考えを巡らせる楓であったが、「そう言えば、手順になってないとこあったじゃん!」とやや大きな声で叫ぶや、勢いよく上体を起こして、掛け布団を剥ぐのであった。
「か、楓さん! 何をしてるんですか!」
「何って、纏めてない部分を纏めにいかないと、薫でも流石に無理だって。あっ」
勢いに任せてベッドから立ち上がった楓は、カラフルにゆがむ視界が脳を直撃したことで、目眩をおこして、がっくりと膝を折ってしまうのであった。
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“カリカリ”や“コッ”っと言う、何かが擦れているような音が微かに響く室内に、一人黙々と作業をしている薫がいたのである。シクワンが楓の見舞いに出て行った後、色を作る手順書をまとめていたのである。
どちらかと言えば、静かであることを好む薫にとっては、最適な環境と言えるのである。しかし、やっていることは全くの畑違いであるため、「違うわね」と声を漏らして書き直すことがしばしば。とは言え、本人は声に出ていることに気が付いていないのか、気にしていないようである。
トッ、と音がして左手が実験テーブルに触れてしまったようである。「楓。キャビネットの近くにいるなら、新しい紙を持ってきて頂戴」と、呟いてしまうが「! そうだったわね、楓は入院しているのだったわね」と独りごちて腰を上げる薫の表情は、寂しそうにも見えるのであった。
小部屋にあるキャビネットの引き出しから、二〇枚程度のA4の紙を取り出して、実験テーブルに戻り再び手順書を書き始めたようである。
眉間に皺を寄せつつ、不慣れな化学の手順書と格闘していた薫は、「ひとまず、纏まったかしらね」と、呟いて手順書をトントンと揃えて脇に置くのであった。
徐に、ゴリゴリと音がしそうではあるが、首を回して一息ついたようである。
「さて。これで楓が作った物と合わせれば、一通りは手順が出来たのだけれど……」と、何かを忘れていないか、確認でもしているようである。
薫が、何かを気にしていると、「ビボボンビビボーン」とチャイムと点滅が実験室内に広がったのである。
「あら。お昼なのね。早いわね。考えるのはお昼の後にしましょう」
そう呟くのだが、答えてくれる者は誰もいない作業場であり、何処か寂しそうに実験室を出て行くのであった。
「か……。ふぅ」
誰かを呼ぼうとしている自分に気が付いた薫は、なんとも言えない表情で、その先を飲み込み、食堂へと入っていくのであった。
――楓は大丈夫かしら。あの病院も気にはなるのだけれど。いえ、そうね。今は、楓が戻ってくるまで受けた依頼をこなすしかないわね。
薫は、表情を引き締め、依頼を全うすると決めたようである。只、無理をしなければ良いのであるが……。
*
前のめりに倒れ込む楓に、サッと腕が伸びてきたのである。
「楓さん!」とっさに、楓の肩と腕を掴み、すんでの所で倒れることが防がれたのである。
只でさえ、視覚に異常をきたしているところに、頭を急激に移動させたことも加わり、目眩をおこして平衡感覚を失ったようである。
「……シクワン。ありがとう。む~。まだだめかぁ」
「立てますか?」と言ったシクワンは、楓の両腕を掴んで引き起こそうとする。楓は、その腕を掴み返すかのように握ったのである。
「ありがと、う? あれ? 手が離れないよ?」
「そのようですね」
「う~。あたしの腕なのに、あんで動いてくれないのぉ。何時までもシクワンに捕まっているのは悪いし」
「あ、いえ。私の方でも、既に動かせませんから。どうしようも……」
「うっ? どったのシクワン?」
「……やはり、こうなりましたか」
そう呟いたシクワンに、「おっ?」と、訝しみ出す楓であったが、覗き込むようにしていると、「な、何してるんですか」と、突然我に返ったようである。
「おっ。戻ってきた?」
「どう言う意味ですか」
「うっ? あぁ、何時ものシクワンではない感じがしたし、“やはり、こうなりましたか”とか、言い出すし。どうしたのかなと」
「そんなこと言いました?」
「うん。言った」
「少々前とは言え、記憶にないですね」
「えっ。それ大丈夫?」
「どうでしょうかね」
「まぁ、それはそれとして。いつまでこの状態でいれば良いのかなぁ。あ、なんかむずむずしてきたぁ。気持ち悪いぃ」
楓は体をひねって、気持ち悪さを表現してでもいるかのようであるが、「腕が離れないですから、しばらく待ちましょう」と、シクワンが楓を落ち着かせようとするのであった。
「あ。なんか、離れない腕の辺りが光ってない?」
「えっ? どうで……。そうですねぇ、光ってますね」
「大丈夫なのかなぁ」
「分かりません」
「そんなぁ」
慌てる楓は、「ど、ど、どうしよう」と、混乱していたのである。それを、「楓さん、落ち着いて下さい。りょ、両腕が塞がってますから……。動かないで」と、シクワンが、オロオロして右に左に体を動かす楓を落ち着かせようと必死である。
更に、恐怖を煽るかのように、「ガチャガチャ。コツン」と、光る腕の下で音がした物だから、「な、何の音? き、機械? あに?」と、恐怖が募るばかりであった。
「楓さん!」
一際大きな声でシクワンが叫ぶと、びくりとして楓の動きが止まり、「シクワン?」と、これまで怒った声を聞いたことがなかったため、衝撃が恐怖心を上回ったようである。
「すいません。余りにも怯えすぎていましたから……」
「あっ。えっと。……ごめん」
「いえ、大丈夫ですよ。それにしても何でしょう」
「う~ん。どっかで見たような、見なかったような……。あんだろう? ……う~。やっぱり、むずむずするぅ。……あー! まさか、ここに来る前に実験していた機械じゃないかな? ……でも何で?」
「なるほど。……位置関係からすると、光っている真下……。と言うことは、こちらにはこのような物はありませんので、楓さんの中から出てきたのでしょうか」
「いやいや。あたしは機械じゃないし。あんでそんな……。う~ん。あれって、波長を打ち消す機械だっけ? 何か考えられる?」
「分かりませんね。そのような物は、今は使っていませんので。ですが、一つ言えそうなことは、これがこちらに来る間に楓さんの中に含まれてしまった、と言うことでは?」
「うっそぉ。……あぁ、こんな時薫がいてくれたら」
「そうですね、明日にでも確認してみましょうか?」
「お願いしたいところだけど、なんとなく、聞かない方が良いような気がする」
「それはどう言う意味ですか?」
「うん。多分小言を、激しく言われると思う」
「あっ、それは、私には耐えられそうにありませんね」
落ちていた機械のような物体を訝しみながら、腕の感覚があることにホッとしたのであろう。幾分か表情から恐怖が消えており、こそばゆい感じに身を揺らす楓であった。
「まぁ、ひとまずは楓さんが、落ち着いて良かったです。でもまだ、しばらく続くのでしょうね」
安堵したシクワンに、ばつが悪いのか俯いてしまう楓であった。
「おっ? 光が弱まってきた?」
「……そのようですね」
更に一分程経つと、「あっ、指が動かせる」と、楓が呟くと。「ようやく解放されますね」と、笑顔で返すシクワンがいたのである。
「おぉ。あたしの腕が返ってきたよぉ」
腕が解放された喜びに咽び返る楓であるその傍らで、「うっ!」と、頭を押さえるシクワンが、「……これは、次に繋ぐためだからだ」と、いつにない口調で喋るのであった。
「シクワン。どったの? どう言う意味?」
歓喜していた楓が、呆気に取られつつも訝しむ一方で、気遣うように声を掛けるのであった。
「な、何を言っているんでしょうか」
「ん? どう言う事?」
「あぁ。全く分かりません。……少々頭が痛いと感じたら、今の言葉が。何故こんな言葉が出てきたのか」
「う~ん……。今までにはあった?」
「いえ、全くありませんね」
「腕が繋がったことと関係は……。あるかも知れないね。始まった時も、変なこと言っていたし」
やや上を向いて喋る楓の言葉に、何やら、自分でも知らないことがあるのだろうと考えると、おぞけが走りそうであるのをなんとか押さえるシクワンである。しかし、驚愕していることは、既に表情に出てしまっているのであった。
何やら、ただ事ではないことが起きている病室内である。床には、楓が見覚えありそうな金属や電子部品の残骸が転がっている。二人が両腕を掴んだことで発生した光と、シクワンが呟いた言葉の意味も分からない状態である。先行きが不安になるなと言うのは無理な話である。
トントン。と、ドアがノックされ、「……はい。どうぞ」と、ワンテンポ遅れて返事をする楓も、幾分か不安があるのであろう。
「お昼になりましたので、昼食を持ってきました」
「ご飯?」と、不安な表情が一瞬で笑顔に変わった楓である。その変わり身というか、一つのことで表情が切り替えられる楓に、「プッ」と吹き出してしまうシクワンであった。
「あによぉ」
「いえ、楓さんがいてくれて良かったです」
「お? うん。ありがと、う?」
「何で、疑問形になるんですか。ふふふふ」
そんな遣り取りをしつつ、「おっ? 二人分?」と、首を傾げる楓に、「あぁ、それは、私の分ではないですか?」と、シクワンが答えるが、「何故、シクワンの分まで出す必要が?」と、地球の病院では、面会者の分は出ないため、疑問に思ったようである。
「そう言うものです」とだけ語る、配膳に来た人物が告げるが、「む~。何故」と、理解できない様子の楓である。
昼食を受け取りながら、「……てことは、薫も呼べるんじゃ」と、ふと思いついたことを口にする楓であるが、「あぁ、楓さん。そうしたいでしょうが、作業を引き継いでいますので、無理だと思います」と、あっさりと否定されてしまうのであった。
「あっ。そうかぁ。う~ん。薫のことだから、その辺はだめだよねぇ」
「……それと、私とではだめなのでしょうか?」
「ん? そんなこと言ってないよ。薫も加われないかと思っただけだって。シクワンが来てくれるだけでも、暇……、じゃない、元気になれるし」
「あっ。暇つぶしになると」
「い、え、あっ。言い間違いであって、え~とぉ」
慌てて、何を言っているのか分からなくなりつつある楓と、クスクス笑ってしまうシクワンの和やかな昼食が始まるのであった。
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紙が撓む音が響く部屋の中で、黙々と目を通しているのは薫であった。どうやら、楓との合作となった手順書を、読み直しているようである。
「……問題はなさそうね」
一通り読み終えた薫は、トントンと紙の束をまとめ直して傍らに置き、最初の器具を集めに回るのであった。
昼食を終えて戻ってきた薫は、「時間はかかるとは告げているのだけれど、それに胡座をかいてはまずいわね。始めましょうか」と、独り言を呟いて、早速ビーカーに水を入れ、原料を注ぐのであった。
――そう言えば、黒い液体にした後は一晩おく必要があったわね。そうすると、今後は、毎日作る必要も出てくるかしらね。……だとすると、効率も考える必要があるかしらね。
アルコールランプにスタンド、石綿金網をセットして、楓がやっていたように火が欲しいと考えるが、元々懐疑心があるためか、火が点いてくれないのである。
「あら? 火が点かないわね。ふむ。そういう事かしらね。はぁ」
溜め息をつき、諦めたような表情をする薫であるが、疑う気持ちと言うものは、そうおいそれとは変えられないものである。とは言え、火が点かないことには原液を作ることが出来ないのもまた事実である。
――困ったわね。理屈で理解するという思考は、そう簡単には変えられないものね。……そうは言っても、このままでは立つ瀬がない、と言えるわね。
アルコールランプに火を付ける、たったそれだけのことであるにも関わらず、ここに来て、薫の思考が邪魔をすることとなった訳である。既に、切羽詰まった状態と言える程である。
パチッ。と、何かが爆ぜるような音がすると、ホッと息を漏らす薫であり、心からの思いが重要であると痛感させられたようである。
「……なかなかに難しいとは思うけれど、信じて思うようになれなければ、ここでは何も出来ないと言うことのようね」
目分量で水と原料を入れたビーカーを、石綿金網の上に載せて、しばし待つことにするのであった。
七~八分程で、「これは、本当に見事と言わざる終えない程、真っ黒ね」と、徐々に黒くなっていくのではなく、透明度が一瞬と言える程の時間で黒くなるのに舌を巻くのであった。
「これでも早いのかも知れないのだけれど、この後の工程を考えると……。そう。特に分離は相当体力がいるわね。それと、一日に一つのビーカーで足りるかも考慮が必要かしらね」
ブツブツと考え事が口から出ている薫である。楓のことは余り言えないようであるが、薫もやはり学者肌なのかも知れない。
「……」
何か気になることでもあったのか、顎に右の指をやり、左腕で右肘を支える仕草をとる薫である。
――そう言えば、原料はゲル状だったわね。水に入れるだけで良いのかしら? とすると……。――と、何やら考え事を始めたようである。
畑が違うため、言いアイディアが浮かんだとしても、それが正しいことであるか。突拍子もないことであるのか、判断しづらいのであろう。かといって、止めてしまうのも問題であるとも考えているのかも知れない。
「……そうね。時間が限られているとは言え、結果的に時間短縮になるかも知れないわね。やってみましょう」
考えをまとめた薫は、早速マグネチックスターラーを用意するのであった。
モーターと電源が詰まっている機械である、乱暴ではなくともドスッと音を立ててしまうのは仕方がないであろう。「ふぅ」と詰めた息を吐き出し、楓がやっていた手順を真似て、ビーカーに水を入れ、ゲル状の原料を投入しようとしたのだが、手を止めてまた何やら考え出したようである。
「……そう言えば。以前は、固形物だったわね。……とすると、分量は未確定になるわね。楓であるなら、目分量で出来たのかも知れないけれど、私には無理ね。とすると……。きちんとした分量を量りましょう」
そう呟いた薫は、少量が計れる物がなかったか、キャビネットにメモしていたリストを確認するが、それらしい物は見つけられず、「困ったわね。どうしたものかしら」と、正に心から欲しいと願ったようである。
コトッと、ビーカーが収まっているキャビネットで音がしたのである。薫は、訝しみながらもそのキャビネットを確認すると、メモリが刻まれたガラスの容器である、メスシリンダーを見つけたのである。
「……」
メスシリンダーを見詰め、訝しみはしたものの「はぁ」と、溜め息を一つして、徐にメスシリンダーを一つ掴んで、実験テーブルに戻るのであった。
「量としては、少ないところから始めた方が良いのかしら?」
薫は、一ml、五ml、一〇mlを計って入れたビーカーを用意したものの、「時間の違いを確認する必要はあるかしらね」と、一mlをもう一つ用意するのであった。
一mlで、撹拌の有無で真っ黒になる時間に違いがあるか確認するようである。
「それじゃ、始めましょうか」と、撹拌しないで加熱した時間を計り、次に、撹拌してから加熱した時間を計ったのである。
「……なるほど。撹拌した方が、二~三分早いことは分かったわ。けれど、撹拌する時間を加味すると、一分も変わらないわね」
もう一つ懸念事項があった、「撹拌した後、この撹拌子を取り出す必要があるわね。混合液に触れても手を洗いさえすれば、良いのかも知れないわね。だけれど、楓の二の舞はまずいわね。混合液とは言え何かあるといけないものね。撹拌は断念しましょう」と、呟いて、撹拌せずに加熱する方法をとることに決定するのであった。
出来上がった一mlで作った黒い液体は、「固形物で作った時より薄いわね。では、五ml以上と言うことになるのかしら……。確認するしかないわね」と、一mlで作った黒い液体が入ったビーカーを、無造作に流しに流してしまうと、「いけないわ。流れ作業で、流してしまったのだけれど……。仕方がないわね、しばらく、ビーカーから水を溢れさせて流しておきましょう」と、水で流し薄めることにしたようである。
こちらの物質であるのだからと考えたのかも知れないが、そもそも、地球と同じような下水システムであるのかは疑問が残るところではある。
テキパキと、一五ml、二〇mlと二種類を準備したのであるが、――四種類で順繰り加熱を始めないと、真っ黒になって気が付かないでそのままにしていたら、何が起こるか分からないわね。――
薫はどうやら、四種類を一度に用意したのは、次の準備で真っ黒になったのを見逃した場合、以前の試験管破裂のようなことが起こる可能性を考慮したようである。
五mlから順次火を付けていくと、当然と言って良いのか、原料の少ない順に真っ黒い液体が出来上がっていくのであった。
「出来上がったのだけれど、固形物で作った黒い液体はなかったわね。さて、どうしたものかしら」
困り果てた薫ではあるが、できうる限り正確な原料の量で、効率よく作業をしたいのであろう。
「はぁ。私の記憶を頼りに、色味を確認するしかないわね」と、四種類の真っ黒い液体の黒さを確認するのであった。とは言え、基準となる物が記憶頼みとなるため、かなり大変である。
「一〇mlと一五mlが近いかしらね。二〇mlは、一五mlとの違いが不明ね。後は、分離した液体が残っているから、そこの比較もしないといけないわね」
そこで、一五ml以上の黒の色味差が判別不能であるためと、分離した際の彩度を確認するため、更に、二五mlと三〇mlを追加したのである。
「ふぅ」と、息を吐き出す薫であるが、結局この日に作った黒い液体は、実験も含めて八個程になったのである。重労働では無いものの、黒い液体が何を引き起こすか不明であるため、かなりの集中力が必要であったのであろう。
「ビボボンビボボーン」と、チャイムが響き渡ったのである。
「! あら、もうそんな時間なのね」
作業的にはきりが良かったのであろう、黒い液体が入ったビーカーを、恐る恐るキャビネットにしまうのであった。そこまで行った薫は、「ふぅ」と息を吐き出して、「ちょうど良いタイミングだったわね。でも、明日はもっと集中しないといけないかしらね」と、楓の事故を思い出したようである。
帰る準備もそこそこに、作業場を後にして食堂へ向かうのであった。
食堂に到着した薫は、集中による疲労があるのか、周囲を気にすることなく配膳口に両手を差し入れるのであった。すると、ドスッとやや重いトレーが出てくるが、そのまま何事もなかったかのように、空いているテーブル席に着くのであった。
――そう言えば、楓は、きちんと処置を受けられているのかしらね。明日もシクワンさんが来るでしょうから、聞いておきましょう。
心ここにあらずと言った状態で、夕食のメニューが、いつもより高タンパクであり、更にデザートまで就いていることに気を止めることなく完食するのであった。
夕食を終え、住居に戻った薫は、楓がいる時と同じように寝る準備を終え、割り当ての部屋に戻ろうとしたところ、「! 楓の部屋のドアがなくなっているわ! どう言う事……。まさか!」と、いつもであるなら考えないであろう、楓がいない事で湧き上がる感情があったようである。
しかし、よくよく見るとドアがあった場所が、「いえ。よく見ると、廊下になっているわね。楓が傍にいないだけで、よからぬ事を想像するなんて」と、気持ちを切り替えた薫は、その廊下の先へと向かうことにしたようである。
突き当たりにはドアがあった。
「ドアがここまで引っ込んだという事かしら、でも何故?」
――楓の部屋を覗くなんて、後で怒られそうではあるのだけれど。
疑問と好奇心に揺れ動く薫であるが、そっと、ノブを回してドアを開けると、「! どう言う事かしら? ここにも居間があるわね」と、驚きに理由を探そうとでもしたのか、躊躇なく足を踏み入れる薫である。
居間の中を確認していくと、ドアが並んで二つあることに気が付いたのである。
「どう言う事かしら」
思わず口を衝いて出た言葉に、手をやってしまった薫はそのドアを開けるのであった。二部屋とも、薫や元の楓の部屋と同じ造りであったのである。“必要な量だけ”という言葉を思い出した薫は、「これのために、敷地が広かったのね。でも、何故二部屋に……。それに、この作りはどう言う事かしら」と、薫の疑問はつきないようである。
~第十章 「融合」 完
~第二部 「役」 完
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